Sketch:2 余白におちた欠片
白い世界には、道と呼べるものがなかった。
それでも、前を歩くミュアは決して迷わなかった。どこへ向かっているのかと問うたびに、「わからない。けど、帰る場所を探してる」と真面目な顔で答えるばかりで、その小さな足が止まることはない。
クラウディオはその背中を追いながら、彼女はこの場所に慣れているのだと思った。いや、慣れているというより――ここが元々、彼女のいるべき場所なのかもしれない。
歩いても歩いても、景色は変わらない果てのない白の均一。
けれど目を凝らしてよく見ると、たまに足元の白がわずかに違って見えることがあった。
少しだけ濃い白、少しだけ薄い白。まるで、かつてそこにあった何かの痕跡のような、消えかけた染みのようなグラデーション。時折見える、やわらかな白。
「ここには、一体何があるんだ?」
ふいに、クラウディオは歩きながらその「染み」を踏まないように問いかけた。ミュアは振り返ることなく、ぺた、ぺたと音を立てながら答える。
「何があるって……さっき言ったでしょ?ところどころ景色が変わっていく場所だって。そういうこと」
「僕のせいで、とも言ったね。あれはどういうことなんだい?」
「そのままの意味だよ。あなたが歩くと、この世界も変わるの」
今はまだ、何もない所なのだけれどね。とミュアは告げる。
「まだ姿カタチもない、この真っ白な空間のことを、ここでは余白域と呼んでいるの」
「――余白域」
クラウディオは、低くその言葉を反芻した。
余白。それは何もないのではなく、これから何かが描き込まれるのを待っている空白。クラウディオは、先ほど見たメイ・リリーの花を思い出した。
あの一角だけが色彩を持ち、やわらかな質感を湛えていた理由。自分がこの世界に存在しているからこそ、あの花は形を成したのだろうか。クラウディオは無意識に指先を口元に当て、思考の海に沈みかけた。
「この余白域にはときどき『色のついたもの』が落ちているの。例えば…白い絵の具に、他の色が触れるとどうなると思う?」
「…染まる、だろうね」
「ええ。ここも同じ。そうやって、少しずつ輪郭を取り戻していくの」
そう告げると、ミュアは少しだけ歩みを緩めた。
正面を向いていた小さな体は、くるりとこちらを振り返り、そのまま後ろ歩きをしながら語りかけてくる。その琥珀色の瞳には、どこか子どものような小さな笑みが浮かんでいた。
「さっきのメイ・リリーも、きっとそういうものだったんだわ。それが、あなたの帰り道に繋がるはずだから」
「…なるほど」
この見渡す限りの白い景色が、単なる「無」ではなく、自身が失ったものを描き出すための巨大なキャンバスなのだと、クラウディオはゆっくりと理解し始めていた。ミュアはそれ以上は語らず、再び前を向く。
「……ほんとうは、何も知らずに帰ってほしいのだけれど」
独り言のように小さくこぼれた呟きは、クラウディオの耳には届かなかった。
「ほら、はやく。迷子になったら置いていくからね」
「手厳しい案内人だ」
クラウディオは小さく苦笑し、ミュアの「ぺた、ぺた」という足音を追って、再び余白の中へ足を踏み出した。
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しばらくして、床に何かが落ちているのをクラウディオは見つけた。
最初は見間違いかとおもったほどだ。なにせこの世界では床も空も白いため、白いものはひどく見えにくい。けれど、その一点だけ、白の中でわずかに「形」の輪郭が違って見えたのだ。
クラウディオは立ち止まり、目を凝らす。
その動きに気づいたのか、ミュアも歩みを止め、少し離れたところでこちらを見ていた。
その床の上に、小さなボタンが落ちていた。直径は一センチにも満たない。糸を通す穴がふたつあり、縁が少しだけ欠けている。本当にどこにでもあるような、本当に何でもないボタンだった。
それなのに。
指先がボタンに触れそうになった瞬間、胸の奥にあった冷たい重りが、ぐらりと動いた。
石がひっくり返るような、暗い水底から見たくないものが浮き上がってくるような嫌悪と焦燥。クラウディオは、空中で手を止めた。
「…ッ」
触れてはいけない気がした。さっきとは違う意味で。
メイ・リリーの花は壊して消してしまう気がして触れられなかった。だが、これは違う。この「色」に触れると、何かが「戻ってくる」気がした。そしてそれが戻ってくることが――いまの彼にとって、ひどく怖かった。
「……クラウディオ」
ミュアが静かな声でクラウディオの名を呼ぶ。彼女が名前を呼んだのは、これが初めてだった。振り返ると、少しだけ眉を下げていた。困っているのとも、悲しんでいるのとも違う。ただ、彼の選択をじっと待つような、静謐な顔だった。
「さっき話したように、この余白域の色にふれればあなたの輪郭がもどってくる。…でも何が戻ってくるかは、私にもわからない。だから、やめたっていいんだよ」
ミュアの声が、白一色の空間に染み込んでいく。
触れずに、このまま真っ白な安寧の中に留まる選択もあるのかもしれなかった。だが、クラウディオはどうしてもそのボタンから目を離せなかった。これが「自分」に関わるものだと、魂が叫んでいたからだ。
白くて、小さくて、縁が欠けたボタン。どこかで見たことがある。
思い出せないのに、胸が締め付けられ、息が苦しい。
「いいや――」
クラウディオは、震えそうになる指先に力を込めた。底知れない恐怖の反面、真実を知りたいと願う本能が彼を突き動かす。
何よりも、
「ここから帰る術があるのなら」
そう口にした瞬間、クラウディオの手がそのボタンを包み込んでいた。
白の中に、色が滲み始めた。じわりと、足元から。指先から。瞼の裏から。ボタンを握った掌を起点に、世界そのものが激しく塗り替えられていく。
白が薄れ、霧の向こう側から冷たい風の匂い。
石畳の硬い感触。そして遠くで誰かが笑う声が――濁流のように、彼の中へ流れ込んできた。




