Sketch:1 白い境界線の向こう側
最初に気づいたのは、音がないということだった。
風の音も、足音も、自分の呼吸さえも、どこかへ消えていく。ただ、暗い水底へとゆっくり沈んでいくような感覚だけが、重く体を包んでいた。
どれほど経っただろうか。重い瞼を押し上げると、視界が眩いほどの白で塗り潰された。視線をゆっくり左右や上下に動かせど、映る世界は白一色。天国とはこういうものか。などと、そんな考えが一瞬よぎる。だが、クラウディオの体には生々しい「生」の感覚が残っていた。
確かめるように手を見れば、そこには見慣れた少し皺の寄った自分の手が。
右の脇腹に触れてみると、昨夜までそこにあったはずのじわりとした熱も、焼けるような痛みもなかった。まるで、最初から何も起きていなかったかのように。
「……いきて、……るか」
掠れた声が、クラウディオの口からこぼれ落ちる。どうやら、まだ死にきれなかったらしい。皮肉な安堵を吐き出し、ゆっくりと体を起こした。
あたりを見渡せば、そこは自分がいた世界とはあまりにかけ離れた場所だった。
地面が白く、空が白い。地平線も、影も、果ても。すべてが同じ彩度に溶け合っている。光源は見当たらない。それなのに、あたりは均一な明るさに満たされている。眩しいわけではなく、暗いわけでもなく、ただ白だけがどこまでも続いていた。
「ここは」
思わず声が漏れ出したが、続く言葉がなかった。
一歩、踏み出してみると、足の下には確かな手応えがあった。だが、それは固くも柔らかくもない。ただそこに物質がある、ということだけを伝えてくる、奇妙な感触だった。
おーい、と声を出してみるが返事はない。もう一度。今度はより大きな声で誰かいないか、とも呼んでみたが、返ってくるのはどこまでも続く静寂だけだった。
どれくらい、そうして立ち尽くしていたのか。この白い世界はどこまでも静かで、どこへ向かえばいいのかも。そもそも向かうべき場所があるのかもわからなかった。
その時だった。ひとり、何もない白の中に立ち尽くしていたクラウディオの耳に、音が届いた。軽くて、小さい。白い世界には不釣り合いなほど、元気のいい響きだった。
「――あなた、」
振り返ると、一人の少女が立っていた。乳白色の長い髪が光を孕んでふわりと揺れている。
真っ直ぐに仕立てられた白いワンピースは、この世界に溶け込んでしまいそうだった。けれど、琥珀色の瞳だけは、くっきりと際立っていた。
10歳ほどにも満たない。その少女の眼差しはずいぶんと大きく、そして射抜くように真剣だった。
クラウディオが何かを問いかけるより先に、彼女が唇がわずかに震えた。
「かえって」
短く、鋭い拒絶が響く。だがそれは怒号ではなく、どこか必死で祈るような響きを帯びた声だった。
「…帰る?」
「そう、ここにいてはだめ。今すぐかえって。早く」
少女が一歩、こちらへ歩み寄る。きゅっと寄せられた眉の奥にある表情は、いまにも溢れ出しそうな涙を必死に堪えているように見えた。その表情をみると、クラウディオは怯えさせることを避けるようにゆっくりと膝を折る。砂利の音さえもしない白い地面に体を屈め、彼女と同じ高さまで目線を落とすと、あやすような、けれど対等な一人の人間として扱うような、穏やかな声色で問いかけた。
「帰るって、どこへ?」
「あなたのいた場所。ここじゃないところ」
「こまったな――それがどこなのか、僕にはわからないんだ」
クラウディオは困ったように眉を下げ、柔らかな苦笑をその口元に滲ませた。
少女は、じっとクラウディオを見つめる。それは単に眺めるというより、クラウディオの何かを探るような目だった。やがて、嘘ではないと判断したのか、張り詰めていた糸が切れたように小さくため息をはいて、白い床の上にぺたりと座り込んだ。広がるワンピースの裾が白に馴染み、境界線がふわりと曖昧になっていく。
「…帰り道、おぼえていないの」
「何も。……いや、何も、は嘘になるかな」
クラウディオは、霧の向こう側にある記憶を手繰り寄せるように話し始めた。
賑やかな酒場の匂い。友人の笑い声。石畳を叩く靴音。そういう感覚は、まだ胸に残っていた。だがそれがどこの街の、いつの出来事だったのか。肝心なところが、白く塗りつぶされたように思い出せなかった。
「僕のいた場所や、名前も……。ええと――」
答えようとした瞬間、羽織っていたコートのポケットから小さな手帳がぽとりと落ちた。
ずいぶんとながく使い込まれた黒い革。この真っ白な世界において、その黒だけが現実味を持ってそこにあった。その手帳をゆっくりと手にとると、指で頁をめくる。
だが、中身はほとんどが白紙でなにも記載されていなかった。ただ一頁目に、見慣れた——だがどこか遠い他人のもののように感じる文字が並んでいた。
「クラウディオ・ディ・ロレンツォ――それが僕の名前、らしい」
その名前を口にした瞬間、少女の肩がびくりと跳ねた。琥珀色の瞳の奥に、一瞬だけ言葉にできない感情が明滅する。それは憐憫のようでもあり、あるいは遠い約束を思い出したかのような、切ない光だった。
クラウディオ、と彼女がその名をなぞるように呟やいた。
「変な名前。――でも、あなたには似合ってるかもね」
彼女はそう言うと、ふいっと視線を逸らして立ち上がった。裾についた白を払いながらゆっくりと立ち上がる。その動作は、まるでこれから始まる長い旅を覚悟したかのようだった。
「しょうがないなあ」
そう呟いて、彼女は再びクラウディオに向き直った。さっきまでの切羽詰まった声とは違う、どこか懐かしく、温かい響き。十歳にも満たない幼い姿とは裏腹に、その微笑みはひどく大人びてたような静けさがあった。
「ついてきて。あなたの帰り道、一緒に探してあげる」
「……ありがとう」
「お礼はちゃんと帰ってから言って」
少女はそう言い捨てて、さっさと歩き出した。小さな足が白い床を踏むたびに、ぺた、ぺたと、軽い音がした。
クラウディオは、その小さな背中を追いかけながら不思議な感覚に包まれていた。なぜだか、この子のことを知っている気がする。どこで会ったのか、どんな名前なのか、何ひとつ思い出せないのに。
ただ知っているという感覚だけが、確かな重みを持って胸の奥にあった。
少女の乳白色の髪が、歩くたびにふわりと揺れる。渡す限りの白い世界は、まだどこまでも続いていた。
――――――――――――――――――――――――――――――――――
どれくらい歩いたころだろうか。
時間も距離もあてにならない白い世界に、ほんのかすかな変化が生まれていた。
劇的な何かではなかった。ただ、どこまでも均一だった足元の白に、ぽつり、ぽつりと、何かが混ざり始めた場所があった。
クラウディオが足を止めたのは、そこに色を見たからだ。
この世界ではじめて現れた、白ではないもの——いや、花弁そのものは白だった。けれどそれは、周りの無機質な白とはまるで違う。わずかな水気と息づかいを帯びた、やわらかな白だった。
小さな鈴のかたちをした花が、細い茎にいくつも連なって、うつむくように咲いている。
そしてそれを包む葉だけが、深い緑をしていた。この果てのない空白のなかで、その緑だけがひとつ、静かに息をしていた。
「……花だ」
ほんの数分前までなにもなかったこの世界に、初めて現れた花を見ると、クラウディオはその場にしゃがみ込み、足元の花を覗き込んだ。クラウディオの呟きに、前を歩いていた少女も振り返るが、足元の花を一瞥して何も言わずに視線を戻す。
「この世界に、花が咲くのかい?」
「さあ、どうだろう…」
彼女は背を向けたまま言葉をかえした。ただ、そっけない回答の続きをぽつりと小さく呟いた。
「ところどころ景色が変わっていく場所はあると思うの。……あなたのせいでね」
「僕の……?」
クラウディオが眉をひそめて問い返すが、少女はそれ以上語ろうとせず、再びぺた、ぺたと軽い足音を立てて歩き出した。無音の空間の中で、小さな白い鈴が、風もないのにわずかに揺れているような気がした。だが手は伸ばさない。触れた途端に、脆く崩れて消えてしまうような危うさがあったからだ。
「この花の名前は?」
「…メイ・リリー」
少し前を歩いていた少女が、足を止めてぽつりと答える。
「リリー・オブ・ザ・ヴァレーとも呼ばれてるわ。すずらん。ミュゲ、とも呼ばれてる」
クラウディオは少し目を丸くした。よく知っているものだ、と思いながらしばらく黙ってその花を見つめ、花の名称をゆっくりと繰り返し呟いた。小さくて、うつむいていて、壊れそうなほど華奢なのに——それでも、この何もない白の中で、ちゃんとそこに立っていた。その姿が、誰かに似ている気がした。
しばらく考え込んでいたクラウディオは、少女の背中へ声をかけた。
「そういえば、君の名前を聞いていなかったね。名前は、なんていうんだい?」
「…………」
少女は振り返り、クラウディオを見つめたまま答えなかった。
答えたくない、というよりも答えられないかのような。ただ、琥珀色の瞳で、静かにこちらを測るように黙っていた。クラウディオは彼女の沈黙をしばらく受け止め、やがて柔らかく微笑むと、「では」とクラウディオがゆっくりと口を開いた。
「僕が君を呼ぶための名前を、借りてもいいかな。この花から」
その言葉に、少女の琥珀色の瞳が、驚いたようにわずかに揺れる。
クラウディオはそう告げると、初めて出会った時のように、ゆっくりと膝を折った。白い床に体を屈め、彼女と同じ高さまで目線を落とすと、どこまでも穏やかな声で告げた。
「ミュア――なんてどうかな。さっき言っていた花の別名から借りて」
「…ミュア」
クラウディオの低い声が、静寂の空間にその名を響かせる。
少女は何も言わなかった。けれど、再び前を向いて歩き出す直前、ほんの少しだけ。本当に少しだけ花のようにうつむいた。その横顔は困ったような、それでもどこか安堵したような、複雑な色を帯びていた。
「――好きによんだらいいんじゃない」
そういえば、ぷいっと顔をそむけながら歩き始めた、ぺた、ぺた、と。その足取りとは裏腹に、背をむけた耳はほのかに赤く染まっていた。
「ミュア」という名をもらった少女の足音が、再び白い世界に響き始める。
メイ・リリーの花は、二人の後ろの白い床に取り残されたまま、誰に見られることもなく静かに揺れていた。




