Sketch: 0-4 白い残響
石畳を叩く自分の靴音だけが、静かな通りに規則正しく響いていた。
街灯の光を通り過ぎるたびに、自分の影が前へ伸び、また背後へと吸い込まれていく。その繰り返しが、まるで振り子のように時間を刻んでいた。
鴻上が灯してくれた温かさは、夜の冷気に少しずつ冷やされながら今は胸の奥に淡い微熱として残っているだけだった。どんな場所でも、どんな時間でも、あいつはあいつのままでいる。それが少し羨ましくて、でも嫌いになれなかった。
――あいつの絵は、きっとどこへ行っても売れるだろう。
そんなとりとめのない考えを反芻しながら、クラウディオは広場の手前にある細い路地へと差し掛かった。ふと気づくと、いつもの帰り道ではないルートを歩いている。街灯が少なく、両側の建物が空を狭めている場所。
昼間に聞き込みで歩き慣れた、あの地区の外縁にあたる一角だ。鴻上と別れた後、無意識のうちに足がこちらを向いていたらしい。
やれやれ、これも職業病か…。
困ったように小さく肩をすくめたが、足裏に伝わる石畳の感触は、やはりどこか頼りなく浮いたままだった。
だがその一瞬。その浮ついた足が止まった。
「――やめて…!」
その声を聞いた瞬間、心臓が一拍だけ遅れた。
違う。あの日とは違う。
頭ではそう理解しているのに、身体の奥底が先に反応を否定した。静寂を断ち切るような悲痛な叫び声。全身の筋肉が、反射的に硬直する。
思考より先に、鍛えられた体が動いていた。腰のホルスターから銃を引き抜くと、銃身の冷たさが指先に鋭く広がる。声のした路地の奥――街灯が壊れ、深い闇が澱みのように溜まっている場所へ、彼は影に溶けるようにして近づいた。
そこにいたのは、若い女性だった。
地面に組み伏せられながらも、必死に抵抗している。
その上に覆いかぶさる男の背中が、闇の中にぼんやりと浮かんでいた。
その瞬間、クラウディオの視界が激しく揺れた。暗闇の中で、女性の輪郭が一瞬だけ、記憶の奥底に眠る小さな少女と重なった。伸ばされた手が、空を掻くように宙を彷徨っている。
――届かない。
その形だけが、妙に鮮明に目に焼き付いた。
遠い過去の記憶。同じ暗がり。胸の奥で、何かが静かに軋んだ。それはまるで、ずっと閉めていた引き出しが、音もなく開いていくような感覚だった。
「――動くな。両手を上げろ」
銃口を男の後頭部へ突きつけ、静かに告げる。男は従うふりをして、ゆっくりと両手を上げた。女性が這うようにしてこちらへ逃れた、その一瞬。男が鋭く振り返り、拳を叩き込んできた。
視界が白く弾ける。衝撃の中、男は暗い路地の奥へと走り出した。
「ッ止まれッ!」
自分でも驚くほど、容赦のない声が出た。男は止まらない。路地を折れ、また折れ、廃墟が並ぶ一角へ逃げ込んでいく。クラウディオもその後を追った。
街灯が完全に途切れ、視界から色が失われていく。息が上がり、心臓が耳元で鐘のように鳴り響く。
だが、視界の先に揺れる背中だけが、異常なほど鮮明に焼き付いていた。
…………………………………………………………………
逃げ込んだのは、窓の割れた古い廃屋だった。
クラウディオも迷わず闇へ踏み込むと、そこは埃の匂いと腐った木の臭気が充満している。荒い息を整えながら暗闇に目を凝らせば、その気配は右手奥の角にあるとわかった。
「終わりだ。大人しくしてくれれば、それでいい」
自分でも驚くほど静かな声だった。だが、引き金に触れた指先だけが、わずかに震えている。男の荒い呼吸が闇の中に響く。低く、乾いた、喉の奥を擦るような息遣い。
その音をクラウディオは知っていた。長い年月をかけてかき集めた証言の中で、何度も、何度も語られてきた特徴。あの夜以来、耳にしたことは一度もなかった。だが、聞けばわかると確信していた。
「覚えているか」
銃口を気配の方へ向けたまま、言葉を続ける。
「ある夜のことだ。屋敷に忍び込んだお前が——小さな女の子を殺めた」
声は震えていなかった。何度もこの言葉を心の中で繰り返してきたから。しばらく沈黙があったが、暗闇の奥から低く、乾いた声が返ってきた。
「…ずいぶん、長いこと追いかけてきたもんだな。お前…あの頃のお坊ちゃまか」
驚きも、恐れもない。ただ、古びた道具を思い出したとでも言うような、無造作な声。その響きが、怒りよりも深い場所へ、深く刺さった。
次の瞬間、闇の中の気配が膨れ上がった。
暗闇の中で男が一気に距離を詰め、銃を構える腕を力ずくで押さえ込まれる。
肺から無理やり空気が絞り出されたが、それでも死に物狂いで手を伸ばし、相手の腕を掴む。床板が悲鳴を上げ、舞い上がった埃が視界を塞いだ。
不意に、鈍い衝撃が脇腹を貫いた。
熱が走る。じわりと、深いところから広がる、熱い熱。何をされたか理解するより先に、体がすべてを察知していた。
「――ッ…!」
指先から力が抜け、掴んでいたコートの感触が滑り落ちていく。
呼吸を荒くさせた男は、クラウディオが床に崩れ落ちるのを見下ろすと、「ざまぁみろ」と吐き捨てるように言い残し、窓を叩き割りながら走り去った。
不規則な足音が窓の向こうへ消え、やがてしんとした静寂が戻ってきた。
追わなければならない。この手で何としてもけじめをつけないといけない。
そう思うのに、膝が床に吸い付くように動かない。
脇腹に手を当てると、そこだけが異常なほどに温かかった。指の隙間から溢れ出す熱い液体が、床板の上に音もなく滴り落ちている。
応援を、と思っても、指先ひとつ思うように動かせない。
意識が急速に遠ざかり、呼吸が少しずつ浅くなっていく。天井の隙間から覗く星が、まるで他人事のように冷ややかに自分を見下ろしていた。
「――ッ…、…、…ラ…」
視界の端から白が滲みはじめる。
誰かの名前を呼ぼうとしたが声にならない。
声が届かないのだ。視界の輪郭がほどけ、星の光だけが妙に白く残った。
クラウディオの意識は、ゆっくりと、どこか深いところへ落ちていった。




