Sketch: 0-3 輪郭のゆらぎ
夜。
あたりはすっかりと暗くなり、街灯がぼんやりとした光の輪を落とす頃。
クラウディオは馴染みの店の重い木の扉を押し開けた。使い古された木の扉が、重い音を立てて彼を迎え入れる。
それさえも、もう長いこと聞き慣れた「日常」の音だった。
石造りの壁に燭台の灯りが揺れ、厨房からはハーブと根菜を煮込む温かな香りが漂ってくる。
その匂いを嗅ぐたびに、強張っていた輪郭がわずかにほどけていくのを感じながら、彼はいつもの窓際の席に深く腰を下ろした。
いつものスープとパンを頼み、窓の外を流れる人々を眺める。
ざわめきの中に身を置きながら、誰とも交わらずに一人でいること。それはクラウディオにとって、いつからか自分を守るための、心地よい境界線になっていた。
その境界線を、踏み越える足音が近づいてきた。
「よぉ、ここにいたんだな」
耳に届いたのは、低く落ち着いた懐かしさを帯びた声だった。
聞き覚えのある、けれど今のクラウディオの日常からは失われてしまった、どこか暖かな灯火のような響きのある声。顔を上げると、そこには幼馴染の鴻上義孝が立っていた。
少し日焼けした肌に、無精髭。
画材の染みがついたままのベストを着て、大きな革鞄を肩にかけたその姿は、この古い街に似つかわしくない自由な空気を纏っていた。何度も聞いたはずなのに、その声は懐かしくも一瞬だけ遠く感じる。そういう声だった。
「鴻上…」
「おう、久しぶりだな。座っていいか?ってきくのも今更か」
鴻上はにかっと笑うなり、断りもなく向かいの椅子を引いた。
「どうぞ」と苦笑まじりに促せば、「遠慮ないな、お前」と自分から座っておきながら抜け抜けと宣った。こういうところも昔から変わっていない。
鴻上はウェイターを呼び、クラウディオと同じスープとワインを頼んだ。
にこやかにウェイターと話しながら、軽い冗談を混ぜつつ、その場の人々と軽い挨拶や雑談を交わす。
その手慣れた、けれど飾らない所作を見ながらクラウディオは微かな苦笑を漏らした。
どこへ行っても、彼はその場に陽だまりを作ってしまう。
自分とは対極にあるその人当たりの良さを、クラウディオはどこか眩しいものを見るように眺めていた。
「いつこっちに?」
「三日前だ。南の港町でしばらく描いてたんだよ」
鴻上はパンをちぎり、ゆっくりと口に運んだ。口にパンを少しずつ頬張りながらも、空いた手で指先を小さく動かす。まるで、今この瞬間すらも、記憶に刻み込もうとしているかのような、微かな画家の指の動き。
「早朝の岸壁に立ってな、光が水面に落ちる瞬間を待つんだ。その光景がこれまた言葉にならねぇくらいに良くてな!」
「そうか」
「そうか…ってお前…もう少し食いつけよ」
鴻上は口を尖らせながら「お前にも見せてやりたかったって言ってんだぞ」と呟く。
それを聞くと、クラウディオはまたも素直な男だと思いながらもくすりと小さく笑みをこぼした。
「ごめん。でもそうだな…見たかったな。」
「遅い!――でもまあ、その顔なら許す」
鴻上はそう言ってワインを一口飲むと、久々の友との再会を喜びながら軽快に喋り続けた。
狂犬のような部下グイードのこと。
すべてを見透かす署長アルハンブラのこと。
クラウディオが「役割」として淡々とこなしている日常の話を、鴻上は否定も肯定もせず、ただ穏やかに聞き入っていた。時折、短く相槌を打つその声は、どこまでも優しく、どこにも刺さらない。
いつの間にか、自分はこういう静かな理解から一番遠い場所にいたのだと、気づかされていた。
だが、食事が終わりに近づくにつれ、会話は途切れ、沈黙が二人の間に落ちた。
かつての二人なら、その沈黙はただの安らぎだった。だが今夜の沈黙には、石畳の底に溜まる水気のような、拭い去れない重さがあった。
そして、その沈黙を破るかのように。鴻上がワイングラスの縁を指でなぞりながら、ぼそりと呟いた。
「……まだ、探してんのか」
鴻上の声が、不意に低くなった。さっきまでの旅人の声ではない。
幼馴染としての、踏み込んだ響き。あの日同じ光景を失った者としての、重苦しい響き。
クラウディオはスープの器を見つめたまま、答えることはせず、ただ沈黙を深めた。
その答えを聞いたかのように、鴻上はそれ以上踏み込むことをやめた。
責めるでもなく、哀れむでもなく。ただ窓の外へ視線を投げると鴻上はぽつりと言葉を投げかけた。
「オレには何もできない。絵を描くことと、お前の話を聞くくらいしか。それに…オレはあの頃、そこにいなかったからよ」
最後の一言は、夜風に消えてしまいそうなほど小さかった。
自責に近いその響きを、クラウディオは否定することができなかった。
「それでも、いつでも言えよ」と。鴻上は目元にかかった前髪の奥から、まっすぐクラウディオを見つめた。それから苦笑を浮かべて、言葉を続けた。
「一応、幼馴染だしな。腐れ縁ってやつ」
「…ありがとう。お前は相変わらず、優しいな」
「うっせーよ。一応頼まれてるんでね。お前のこと」
鴻上はわざとらしくワインを煽れば、照れ隠しのようにそのワインを飲み干していく。
その不器用な優しさに触れて、クラウディオは久しぶりに、肺の奥まで空気が届くような感覚を覚えた。
何かが解決するわけではない。
でも、ひとりで抱えているものが、少しだけ軽くなった。
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店を出ると、夜が静かに広がっていた。
街灯の光が石畳に落ちて、濡れたように滲んでいる。風が通り過ぎるたびに、その光がわずかに揺れた。昼間ここを歩いた人々の気配は、もうどこにも残っていなかった。
遠くで猫が鳴いて、また静かになった。
「今日は、どこに泊まってるんだい?」
「いつもの安い宿だ。この辺は人通りが多いんでね、明日からは街を歩いて絵を売るつもりさ。嫁さんのためにも稼がねえと」
鴻上は自嘲気味に笑い、重そうな革鞄を担ぎ直した。
その拍子に、スケッチブックの擦れる音や、画材がカチカチと乾いた音を立てていく。
「今回のやつ、結構良い出来だと思うんだけどな」と少し小さめのキャンバスを出しながら、小さくため息を吐いた。
「売れるよ。お前の絵は、少し色素が抜けたような白さが特徴だけどその静けさが人を惹きつける。見た目とは正反対だけれど、それがいい」
「見た目とはとか、一言余計だ。つーか…不意打ちでそういうことを言うのは、昔から変わらねえなお前は」
鴻上は何か言いかけて、結局はただ短く鼻で笑った。
「んじゃ、また来る」そういって軽く手を振って、鴻上は石畳の上を足早に去っていく。
革鞄が揺れるたびに、画材の小さな音が夜の闇へ吸い込まれていった。
その背中が夜の闇に溶けて見えなくなるまで、クラウディオは見つめ続けた。
ふと風が来て、街灯の光がわずかに揺れる。石畳の上に伸びた影が、ゆっくりと形を変えた。
いつもと同じ帰り道のはずなのに。
足裏に伝わる地面の感触が、なぜか少しだけ柔らかく感じた。




