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Sketch:5 彩域の産声

三人で白い世界を歩き始めて、しばらく経った頃。

鴻上はスケッチブックを脇に抱えたまま、特に何をするでもなく、ただ飄々と歩いていた。大きな歩幅で、革鞄を肩に揺らしながら、ミュアとクラウディオの少し後ろをついてくる。急ぐ様子もなければ、遅れることもない。

まるで、まるで散歩でもしているかのような歩き方だった。


クラウディオは歩みを止めぬまま、ふと思い出したように背後の鴻上へと振り返った。

「鴻上……さっき『描いてやる』と言っていたね。あれは、どういう意味なんだ」

「あん? そのままの意味だが」


そのままの意味とは、とクラウディオがオウム返しに問うと、鴻上は炭を指先でくるくると回しながら、少し考えるように空を見上げた。そこには何もない、ただの均一な白があるだけだ。それでも彼は、何かを探すように目を細めてから、ゆっくりと言葉を置いた。


「たとえばだが――さっきの記憶(ダイブ)で、何か感じたことはねえか。ボタン以外でだ」

「感じたこと?」


「なんでもいい。景色、匂い、空気、肌に触れた風とか」

鴻上は歩みを緩めて、クラウディオの隣に並んだ。

革鞄がふたりの間で揺れる。


「お前が覚えていることを、そのまま言葉にしてみろ。それがオレにとっての絵の具になる。色も形もまだぐちゃぐちゃでいい。素材さえあれば、オレが形にしてやる」


クラウディオは歩きながら、静かに目を閉じた。白い世界の光が瞼の裏を透かしてくる。 あの記憶の中にあった断片を、深い水底から手繰り寄せるように意識を沈めていく。


「……路地があった」

「路地、な」


鴻上は即座にスケッチブックを開いた。

歩きながら描くことには慣れているらしく、足元を見もせずに炭を走らせ始める。シュッ、シュッと、乾いた音がリズムを刻み出した。描きながらときどき小さく頷く。聞いている、というより、受け取っている、という方が近い仕草だった。


「古い石畳の路地だ。両側に鉄柵が続いていて、夕暮れの光が横から差していた。子どもたちが歩いていて……どこかの家から、夕飯の匂いがしていた」

「石畳か。柵はどんな形だった」

「古くて錆びていて、ところどころ曲がっていた…かな」

「建物は」

「…あった気がする。低くて、互いの肩を寄せ合うように密集していて。窓が小さくて、下町のような……」


独り言のように呟けば、鴻上の手は加速する。

石畳の路地。錆びた柵。低い建物の連なり。小さな窓。クラウディオの曖昧な言葉が、炭の線に変わって紙の上に定着していく。言葉では掴めなかったものが、誰かの手を介して形になっていく不思議な感覚に、クラウディオは微かな眩暈を覚えた。


「夕飯の匂いってのは、どんなだ」

「……パンを焼く香ばしい匂い。それから、何かを煮込んだ……トマトのような、酸味のある匂い」


鴻上は炭を止め、少しだけ顎を上げて笑った。

「お前、意外と覚えてんじゃねえか」

「覚えている、というのとは違う気がする。体が知っている、という方が近いんだ」

「それでいい」


鴻上は指先で炭の粉を払い、声を落とした。

「記憶ってのは、頭だけにあるもんじゃない。細胞のひとつひとつに染みついてるもんなんだよ。匂いも、音も、手触りも――全部お前の中にまだ残ってる。ただ、それを引き出す『道具』がなかっただけだ」


鴻上がスケッチブックをくるりと回して見せた。路地があった。そして、その床は古い石畳。両側に続く錆びた柵。低い建物が連なり、窓から微かな光が漏れている。炭の濃淡だけで描かれているはずなのに、そこには確かに夕暮れ時の琥珀色の温度が宿っていた。

線の一本一本に、クラウディオの言葉が染み込んでいるようだった。


「……ああ。そうだ、こんな感じだ」

クラウディオは、その絵を食い入るように見つめた。自分の中にあった朧気なイメージが、他者の手を介して形にされた瞬間、霧の中にぼんやり見えていたものが、ぐっと手前に引き寄せられるような感覚があった。


「……君は、驚くほど絵がうまいな」

「おいおい。現役の画家を舐めるなよ?」


鴻上は得意そうに笑いながら、スケッチブックを閉じかけた。

そのとき、前を歩いていたミュアが足を止めた。

「……見て」


彼女が指さした先、真っ白な余白の中に何かが浮き上がっていた。

ぼんやりとしていた石畳の模様が足元から急速に伸びていき、その先に建物の影が現れる。低くて、古くて、密集した家々のシルエット。


それは、いま鴻上が紙の上に描いたものと寸分違わぬ形をしていた。


「描いたら出てきやがった」

鴻上は少し目を見開いた。それからスケッチブックと目の前の景色を見比べて、満足そうに鼻を鳴らした。


「やっぱりな。この世界はお前の記憶に直結してやがる」

近づくにつれて、輪郭は濃く、厚みを増していく。

石畳の硬い感触が足の裏に伝わり、白一色だった空気に錆びた鉄の匂いが混じり始める。建物の壁が、ぼんやりと色を帯びていく。

この世界が、クラウディオの記憶に応えるように、ゆっくりと形を成していた。


「これが、君の言う…『描いてやる』ということか」

「そういうこった」

鴻上は歩きながら、革鞄の肩紐を直した。


「お前が素材を出す。オレが形にする。そうすりゃ、この世界が勝手に応えてくれる」

スケッチブックを閉じて、色を帯び始めた世界をぐるりと見渡した。

石畳の路地が続いている。建物の影が、白の中に陽炎のように揺れながら、確かな現実として定着しようとしていた。鴻上はしばらくそれを眺めてから、にやりと笑った。


「もう余白域よはくいきじゃねえな、ここは――彩域さいいきだ。お前の記憶が、キャンバスに色を落とし始めたんだよ」クラウディオは何も言わなかった。ただ、自分の言葉が絵になり、絵が世界になったことを、静かに噛みしめていた。


白だけだったこの場所に、自分の記憶の色が灯り始めている。

それは不思議で、少し怖くて、でもどこか——安堵に似た感覚だった。


白い世界から路地となった道を歩いた。

鴻上の大きな足音と、クラウディオの落ち着いた足音と、ミュアの軽いぺたぺたという足音。三人分の音が、白かった世界に響いている。


――――――――――――――――――――――――――――――――――


さらに歩くと、路地の突き当たりに一軒のアパルトメントが現れた。

四階建てほどの、古い建物。入り口のアーチだけがかろうじて形を保ち、壁はまだ白に溶けかけている。


「見覚えがあるか」

鴻上が隣に来て建物を見上げると、スケッチブックを開いた。

どんな建物だったか、わかるところだけでいいといわんばかりの表情で、クラウディオを見つめれば、クラウディオは再び意識を沈めていく。


「……壁がくすんでいて、階段が狭い。入り口には鉄の手すりがあった」


鴻上の炭が走る。

アーチに手すりが描き足されると、建物の壁に、描いてもいないひび割れが自然と走り出した。彩域がクラウディオの記憶に呼応し、ディテールを勝手に補完し始めたのだ。


三人は狭い階段を上った。踊り場の窓から白い光が差している。三階の廊下の突き当たり。その扉だけが、他よりも濃い現実味を帯びていた。



「ここだ」

扉を押すと、喉の奥を突くような軋み音が響いた。

中は、驚くほど質素な部屋だった。テーブルがひとつ、椅子がひとつ。

物は少なく、最低限の生活の道具だけが整然と置かれている。生活はしているが、そこに「暮らして」はいない――そんな、所有者の不在を感じさせる空間だった。


ただ、窓際だけが色彩を保っていた。

鉢の形も大きさもバラバラな観葉植物がいくつか並び、どれも生き生きと葉を広げている。 そのひとつに手が伸びた。土の湿り具合を確かめるように指先で触れた瞬間、馴染みのある体温が指先から伝わってきた。


「……へえ。お前、植物なんて育ててたのか」

「わからない。けれど……世話をしていた感覚だけが、指に残っている」


クラウディオは壁際の棚に目を向けた。その上には、古い木の箱が置かれている。 蓋を開けると、中には彼の「人生の断片」が収められていた。色褪せた数枚の写真。小さな石。乾いた花の欠片。


そのとき、視界の隅に、もうひとつの扉が見えた。

部屋の奥、廊下の突き当たりに閉ざされたままの扉。他の壁がまだ白く透けているのに、その扉だけが、まるで血を吸ったように重苦しい色をしていた。取っ手に触れようとした瞬間、胸の奥の重りが、不吉な動きを見せた。


「おっと、そっちはまだだ」

鴻上が静かに言った。その声に、いつもの軽さはない。


「お前が思い出すときが来たら、勝手に開く。今はまだ、触るな」

鴻上の瞳が、一瞬だけその扉を射抜いた。それは「知っている」者の目だった。クラウディオは、引き寄せられるように伸ばしていた手を、ゆっくりと引いた。


代わりに、棚の脇にある小さな引き出しに指をかけた。

古い木の、取っ手が少し歪んだ引き出し。中には、一通の白い封筒が入っていた。  宛名も差出人もない。ただ、丸くて丁寧な、けれどどこか震えるような筆跡で一言だけ添えられていた。


――いつか、元気がないとき、元気が必要なときは、これをひらいてね。

胸の奥が、激しく脈打つ。ボタンの時の温かさとは違う。

それは、開けてしまえば二度と元には戻れないという、冷たい警告に似た予感だった。


振り返ると、鴻上は部屋の入り口に立ったまま、黙ってこちらを見ていた。

「鴻上……君は知っているのか、これを」

「知ってるもなにも」


鴻上は逃げ場のない声で言った。

「言っただろ。オレが教えちまったら、それはお前の記憶じゃなくて、ただの知識になる。知識だけじゃ、ここからは帰れねえよ」


「知識」では、この世界を塗り替えることはできない。

クラウディオは小さく頷き、震える指を封にかけた。


白かった部屋の隅に、じわりとした新しい色が、ゆっくりと滲み始めた。

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