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Sketch: 13-2 鴻上

南の港町に戻ったのは、クラウディオが退院して数日が過ぎた頃だった。

潮風に晒されて塗装の剥げた自宅の扉を開けると、波の音と絵の具の匂いが混ざり合った、

いつもの空気が鼻をくすぐる。


妻に「また行くの?」と呆れ顔で尋ねられ、「どうしても、描かなきゃいけないものがあるんだ」と答えた。彼女は「いつもそうね」と少しだけ誇らしげに笑う。

自分の不規則な生き方を認め、遠くから見守ってくれるこの人のことを、鴻上は改めて、凪いだ海を眺めるような心地よい愛しさで包み込んでいた。


けれど今回は、本当に描かなければならないものがあった。

これまで描いてきた朝焼けの海や、孤独な漁師の小舟、水面に砕ける光の破片……それらとは違う「何か」だ。

あの、おぼろげな白い夢の中で目にした数々の風景を、鴻上はもう一度、現実の重みを持つ絵の具で掴み取るために、夢中で画材をかき集めた。



夢、と呼ぶにはあまりに手触りが鮮明だった。

白い霧の向こうで、自分は確かに炭を走らせ、誰かのために扉を描いていた。

指先には、あの硬い炭が削れる感触が残っている。

隣には、自分を必要としている人がいた。そこで目にした風景は、記憶の引き出しに仕舞われた古い写真のように、色彩を失いながらも確かな輪郭を持って鴻上の脳裏に焼き付いていたのだ。


それからの日々、鴻上は街を転々と歩き回った。

バスに揺られ、船に乗り、時には見知らぬ誰かと語らい、路上で即興のスケッチを売って路銀を稼いだ。生まれ育った街を、異国の旅人のような新鮮な目で見つめ直し、彼は一つひとつの風景を丁寧に、祈るようにキャンバスへと彩っていった。


すべての絵が完成したのは、ある静かな夜のことだった。小さな四角いキャンバスに描かれた連作を、アトリエの床に並べてみた。

普段の鴻上のパレットは、白を基調とした、どこか体温の低い色を好む。

けれど、今回の絵は違った。どの風景にも、夜明け前の空が溶け出したような、()()()()()の色が層を成して重なっている。


――これを、あいつに見せなければならない。


理由はうまく説明できなかった。だが、クラウディオの目に触れなければ、この絵は永遠に未完成のままであるような、そんな奇妙な確信があった。


窓の外で、寄せては返す波の音が、絶え間なく時を刻んでいた。

――――――――――――――――――――――――――――――――――


さらに一ヶ月後、鴻上は再びあの石造りの分署を訪ねた。

革鞄の中には、角ばった小さなキャンバスが数枚、重みを持って仕舞い込まれている。受付で、かつて「狂犬」と呼び止めたあの若い警官と目が合った。


「お、お前あれだろ、分署の狂犬!」

鴻上がひらりと手を振って呼び止めると、グイードは露骨に顔をしかめこれ以上ないほど嫌そうに背を向けた。その顔をみた瞬間、この機を逃さんとばかりにグイードの肩をがっちりと掴んだ。


「待て待て、お前クラウディオの知り合いだろ? あいつを呼んでくれよ」

「なンだてめぇ…不審者か?公務執行妨害で今からしょっぴくぞコラ」


「おい、これくらいで暴行扱いかよ。お前の肩はガラス細工か?」

「警察の身体に触れるのは『暴行』なんだよ。学校で習わなかったのかァ?」


不毛な攻防を繰り広げていると、背後から「鴻上」と自分を呼ぶ、落ち着いた声がした。クラウディオだった。一ヶ月前よりも、その眼差しは澄み、足取りは確かになっている。


「幼馴染だよ。通してくれ、僕が呼んだんだ」

その言葉に、グイードは鴻上をひとしきり睨みつけてから、渋々と道を空けた。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――


二人は分署の中庭にある、年月を経て銀鼠色に変色した木製のベンチに腰を下ろした。

鴻上はゆっくりと革鞄のベルトを外し、正方形の小さなキャンバスを取り出して、それを一枚ずつクラウディオに手渡した。


「これ、お前に見せなきゃと思ってな」


絵は、全部で四枚。

歴史を湛えた重厚な建物。運河を跨ぐ石造りの橋。水面に揺れるゴンドラ。 どれもが、あの白い夢の中で見た風景に、現実の光を当てて確かな呼吸を持たせたものだった。


クラウディオは一枚ずつ、まるで壊れ物を扱うような手つきで、指先で油絵具の凹凸をなぞった。

その目は、失くした宝物を見つけたかのような、慈しみに満ちた光を湛えている。


そして、最後の一枚を見たとき、彼の指が止まった。

「……これは」

「描きたかった。理由はわからん」


ただ、描かなければいけないという、抗いがたい熱に突き動かされたのだと鴻上は言った。

クラウディオは沈黙した。絵の中の三人を、あるいはその背景に広がる空を、じっと見つめ続けていた。


「……やっぱり君は、絵が上手いな」

「当たり前だろ、プロだぞ」


ふん、と誇らしげに鼻を鳴らしたかと思えば、クラウディオの目線は希望に満ちたような。

あたたかな瞳でその絵を見つめていた。大切そうにその絵を握る力に手をこめると「ありがとう」と呟いた。鴻上は少しだけ視線を泳がせたあと、照れ隠しに乱暴に頭を掻いた。


「だから礼を言うな。……ったく、柄じゃねえんだよ」


鴻上はもう一度だけ、その正方形のキャンバスを覗き込んだ。そこには、三人の人物が黎明の空を見上げる光景が描かれていた。

希望の色を孕んだ、どこまでも澄んだ朝の風景。


なぜ自分がこれを描いたのか、なぜクラウディオに手渡さなければならなかったのか。

その本当の理由は、まだ言葉にはならなかった。


けれど、それで良かった。

この絵が、あるべき場所に辿り着いたという確かな手応えだけが、鴻上の胸を静かに満たしていた。

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