Sketch:14-3 見定 ― 灯火を見つめる者の話
クラウディオが復帰して、二週間が過ぎた。
アルハンブラは毎朝、職務が始まる一時間前には分署の門を潜るようになっていた。
なぜそうしたのか、彼女自身にも明確な答えはない。ただ、クラウディオが戻る一ヶ月も前から、それぞれの持ち場に備え始める部下たちの背中を見て、自分もまた熱の流れに身を投じるべきだと感じたのだ。
中庭の花に水をやり、古びた給湯室で湯を沸かしてコーヒーを淹れる。
立ち上る湯気の向こう、窓越しに分署の入り口を見つめるのが、ここ最近の彼女のささやかな日課になっていた。
復帰したばかりの《《あの男》》が、確かな足取りで現れる。
その姿を視線に収めてから小さく息を吐き、静かに自分の執務室へと足を戻すのだ。
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彼を部屋に呼び出したのは、柔らかな陽光が差し込む朝だった。
アルハンブラは、手際よくハーブティーを用意した。それはこれから訪れる彼への、疲弊した神経を労わるように、ほんの少し琥珀色の蜂蜜を垂らしたものだ。
本人が甘いものを好むかは知らなかったが、死の淵から帰還した今の彼には、この微かな「甘み」が必要だと、彼女の直感が囁いていた。
しばらくすると、コン、コンと控えめだが、以前のような躊躇いのないノックが響く。
「入れ」と、短く応じると重い木製の扉が開き、クラウディオが姿を見せた。
「署長、お呼びでしょうか」
「だから、その堅苦しい呼び方はやめろと言っている――まぁいい、座れ」
クラウディオは、かつての自らを焼き尽くさんばかりの危うさを削ぎ落とした姿で、静かに腰を下ろした。手渡したカップを「ありがとうございます」と両手で受け取るその所作も、驚くほど穏やかだ。
アルハンブラはしばらく無言のまま、彼の顔を見つめていた。
――目が、変わっている。
かつて、自らを焼き焦がしていた炎が消え去っている。
代わりに、穏やかで澄んだような余白が生まれていた。何かを頑なに抱え、自らを罰し、復讐に囚われ続けていたあの歪な重さが、薄くなっていることに気がついたのだ。
「復帰してから二週間が経ったな。どうだ」
「問題なくやれています」
「グイードは」
「頑張っています。…どこか少し変わってきた気がします。それは彼だけではなく、他の部下たちも」
そうだろう、と彼女は心の中で小さく呟いた。
あの子はそういう子だ。不器用で、口が悪くて、すぐに頭に血が上る。けれど、誰よりも真っ直ぐに、クラウディオという背中を追いかけてきたのだ。
だが、それはグイードだけではない。クラウディオの不在を守り抜いた部下たちは皆、彼という光が戻ってくる日を信じ、今日までを繋いできたのだ。
「あの子たちに感謝しろ。お前がいない間、ずいぶんと大変だったと聞く」
「存じています」
「そうか。グイードだが…あいつはお前が入院している間、毎日見舞いにいっていたぞ。本人は一度も口にしなかったがな」
「え?――、……そう、でしたか……」
「そういう子だ。お前は随分と果報者だな」
クラウディオが驚きに少しだけ目を見張れば、すこしばかり照れくさそうに目を伏せた。
立ち上る湯気と共にハーブティーを一口含むのを見届けてから、アルハンブラは窓の外へ目線を外した。中庭には、今日も名もなき花々が、春を待ちわびるように気ままに首を揺らしている。
「アルハンブラ」
不意に、役職ではなく名前を呼ばれた。まるで行方をくらませていた自らの意志を、もう一度この場所へと繋ぎ止めるかのような、低く深い響きだった。
「なんだ」
「一つ、聞いてもよろしいでしょうか」
「言ってみろ」
その言葉を聞くと、クラウディオはゆっくりと重たい唇を動かした。まるで彼女の許容範囲を確かめるかのように。慎重に、ゆっくりと。
「私を拾ったあの日から、あなたはずっと多めに見てくれていましたよね――この長い間、私はあなたの命令に背いて単独行動に走ったことも、組織の規律を破ったことも、何度もあった」
「……何がいいたい」
「あなたは、最初から気づいていたんじゃないかと思って……。私が腹の底に何を抱え、何のために、ここで過ごしてきたのかも」
アルハンブラはすぐに答えなかった。
代わりに眼鏡を指先で少し押し上げ、室内に流れる沈黙を重石のようにその場に置いた。
当然だ。すべて知っている。
この男が何を抱え、何に焼かれ続けてきたのかを。
止めようとしたことは、それこそ数え切れないほどあった。分署長という立場から、彼の無謀な執念を、書類上で切り捨てようとしたことは一度や二度ではない。だが、その度に彼女の手はとまった。止めたところで、何の意味もないと分かっていたからだ。
この男の芯にあるものは、外側から止めようが、法で縛ろうが消えはしない。それは、同じ「組織」という場所に身を置いてきたアルハンブラ自身にも、痛いほど理解できていた。
——だからこそ
「お前が自分で向き合わなければ、意味がないと思っていた」
やがて、冷めかけたハーブティーの湯気の向こうから、彼女は静かに告げた。
「止めることは簡単だ。お前から捜査権を取り上げることもできた。だが、組織の力で無理やり足を止めさせたところで、お前の中の時間は動き出さない。それはお前自身の手でどうにかするしかない代物だ」
クラウディオが、わずかに目を見開く。彼女が自分の素性と目的を知った上で、なお「信じて待つ」という、残酷なまでに温かい選択をしていたことに。
「……見守っていてくれた、ということですか」
「見守る、というほど大げさなものではない」
自惚れるなとばかりに、彼女はフンと鼻を鳴らした。だが、ゆるやかに長い睫毛を伏せると、声のトーンを一つ落として言葉を重ねる。
「私はただ、見定めていただけだ。お前の瞳の奥で燃え続ける炎が、自分自身を焼き切ってしまうのか…あるいは、その熱で何かを見つけ出すのかをな」
――本当のことを言えば、アルハンブラとて気が気でなかった。
クラウディオを拾ったあの日から。
この長い年月、いつかあの目が絶望で壊れ、どこか遠くへ消えてしまうのではないかと。
そしてその果てに、自身を消してしまうことも。
復讐を終えた先で、起こることさえも。
もしも、それが組織全体すらも脅かすものであるならば、自らの手を下すことすらも頭に入れていたほどだ。けれど、そんな感傷を口にしても、何の意味もないことを彼女は知っていた。
「その中で、お前は自分を許すという決断を下したわけだ」
「……長い間、待たせてしまいましたね」
「まったくだ。お前の暗い顔には、いい加減飽き飽きとしていたところだ」
「……すみません」
「謝るな。そんな顔を見るために待っていたわけではない」
アルハンブラは、少し冷めてしまったカップを持ち直した。
「お前は、お前自身をこの場所へと連れ戻してきた。……それで十分だ」
本当に、それだけで十分だった。
彼女は厳格な目元に、微かな暖かさを孕んだ笑みを浮かべ、もう一度ハーブティーに口をつけた。近況報告という名の、長い旅を終えたかのような。家族の雑談にも似た、穏やかで贅沢な時間。
アルハンブラは、かつてより少しだけ背筋の真っ直ぐに伸びたクラウディオの後ろ姿を、満足そうに視線で見送った。
ほどなくして、クラウディオは業務のため席をたつ。 クラウディオが部屋を出る間際、ふとドアノブにかけた手を止め、振り返った。
「アルハンブラ、中庭の花ですが……いつも綺麗ですね。」
「…業者に頼んでいる。私は指一本触れていない」
わざと無機質な声で返せば、クラウディオは「そうですか」とすべてを察したような穏やかな声で微笑み、静かに扉を閉めた。彼女はしばらく、閉じた木製の扉の頑丈な木目をじっと見つめていた。
それからゆっくりと立ち上がり、窓の外の中庭を眺める。
それは、彼女が土を掘り、種を蒔き、毎朝欠かさず水をやってきた大切な名もなき花々だ。業者など、この分署に一度も呼んだことはない。
けれど、それを彼に明かすつもりは毛頭なかった。
いつかあの男が、復讐という名の長い長い夜を越えて、ようやく前を向く日が来たら。
その時の彼の視線の先に——せめて一輪でもいいから、この美しい色彩があってほしい、と。
ただそれだけの願って、彼女はこの長い年月を、名もなき花と共に生きてきたのだ。
花がまた、朝の風に揺れた。
彼女の秘めたる祈りに応えるように、眩しい朝の光を全身に浴びて。
それはただ、そこに咲いていることを誇っているようだった。




