Sketch: 13-3 アルハンブラ
クラウディオが復帰して、二週間が過ぎた。
アルハンブラは毎朝、職務が始まる一時間前には分署の門を潜るようになっていた。
なぜそうしたのか、彼女自身にも明確な答えはない。
ただ、クラウディオが戻る一ヶ月も前から、それぞれの持ち場で早めに備える部下たちの背中を見て、自分もその静かな祈りのような流れに身を投じるべきだと感じたのだ。
中庭の花に水をやり、湯を沸かしてコーヒーを淹れる。
窓越しに分署の入り口を見つめ、クラウディオがいつものように、以前とは違う確かな足取りで現れるのを確認してから、彼女は自分の執務室へと戻るのだ。
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彼を部屋に呼んだのは、柔らかな陽光が差し込む朝だった。
アルハンブラは、手際よくハーブティーを二つ用意した。クラウディオの疲弊した神経を労わるように、ほんの少し、琥珀色の蜂蜜を垂らしたものだ。
本人が甘いものを好むかは知らなかったが、死の淵から帰還した今の彼には、この微かな「生の甘み」が合うと、彼女の直感が囁いていた。
コン、コン、と控えめだが迷いのないノックが響く。
「入れ」
短く応じると、扉が開き、クラウディオが姿を見せた。
「署長、およびですか」
「だから、その呼び方はやめろと言っている――まぁいい、座れ」
クラウディオは、かつての幽霊のような危うさを削ぎ落とした姿で、静かに腰を下ろした。手渡したカップを「ありがとうございます」と受け取るその所作も、どこか穏やかだ。
アルハンブラはしばらく、無言で彼の顔を見つめた。
――目が、変わっている。
かつての自らを焼くような黒い炎は消え、代わりに澄んだ余白が生まれている。
何かを抱え、自分を罰し、復讐に囚われ続けていたあの歪な重さが、薄くなっていることに気がついたのだ。
「復帰してから二週間が経ったな。どうだ」
「問題なくやれています」
「グイードは」
「頑張っています。どこか少し、変わってきた気がします」
そうだろう、と彼女は心の中で呟いた。
あの子は、そういう子だ。不器用で、口が悪くて、けれど誰よりも真っ直ぐにあの背中を追いかけてきた。
だが、それはグイードだけではない。クラウディオの不在を守り抜いた部下たちは皆、彼という光が戻ってくる日を信じ、今日までを繋いできたのだ。
「あいつはお前が入院している間、毎日見舞いにいっていたぞ。本人は一度も言わなかったがな」
「え?――、…そう、でしたか…」
「そういう子だ。お前は随分と果報者だな」
クラウディオが驚きに目を伏せ、立ち上る湯気と共にハーブティーを一口含むのを見届けてから、アルハンブラは窓の外へ目をやった。
中庭には、今日も名もなき花々が、春を待ちわびるように気ままに揺れている。
「アルハンブラ」
不意に、名前を呼ばれた。まるで行方をくらませていた自らの意志を、再びこの場所へと繋ぎ止めるかのような、深い響きだった。
「なんだ」
「一つ、聞いてもいいでしょうか」
「言ってみろ」
その言葉を聞くと、クラウディオはゆっくりと、重たい唇を動かした。
まるで、相手の様子や行動を、伺うかのように。ゆっくりと。
「僕を拾ってくれたあの日から、ずっと多めに見てくれていましたよね――あなたは、気づいていたんじゃないかと思って。僕が、何かを抱えているのを」
アルハンブラは答えなかった。代わりに眼鏡を少し押し上げ、沈黙を重石のように置いた。
当然だ。すべて知っている。この男が何を抱え、何に焼かれ続けてきたのかを。
止めようとしたことは何度もあった。
分署長という立場から、彼の執念を書類上で切り捨てようとしたことは、一度や二度ではない。だが、その度に彼女の手は止まった。止めても、意味がないと分かっていたからだ。
この男の中にあるものは、外側から止めたところで消えはしない。
それは同じ「組織」という冷徹な場所に身を置くアルハンブラにも、痛いほど理解できていた。
「お前が自分で向き合わなければ、意味がないと思っていた」
やがて彼女は言った。
「止めることは簡単だ。職権を使い、お前から捜査権を取り上げることもできた。だが、止めたところで、お前の中の時間は動き出さない。それはお前自身が、どうにかするしかない」
クラウディオが目を見開く。彼女が、自分の素性を知った上で、なお「信じて待つ」という残酷なまでに温かい選択をしていたことに。
「……見守っていてくれた、ということですか」
「見守る、というほど大げさなものではない。私はただ、見定めていただけだ。お前という炎が、自分自身を焼き切ってしまうのか、あるいはその熱で何かを見つけ出すのかをな」
本当のことを言えば、アルハンブラはずっと、心の中で心配をしていた。
クラウディオを拾ったあの日から。この長い年月、いつかあの目が絶望で壊れ、どこか遠くへ消えてしまうのではないかと、それだけを恐れていた。
もしも、それが組織全体すらも脅かすものであるならば、自らの手を下すことすらも、頭に入れていたほどだ。
けれど、そんな感傷を口にしても、何の意味もないことを彼女は知っていた。
「その中で、お前は自分を許すという決断をしたわけだ」
「……長い間、待たせてしまいましたね」
「まったくだ。いい加減、飽き飽きとしていたところだ」
「……すみません」
「謝るな」
アルハンブラは、冷め始めたカップを持ち直した。
「お前は、自分自身を連れ戻してきた。……それで十分だ」
本当に、それだけで十分だった。
彼女は目元に微かな、温かさを孕ませた笑みを浮かべ、もう一度ハーブティーに口をつけた。
近況報告という名の、けれど家族の雑談にも似た、穏やかな時間。
アルハンブラは、かつてより少しだけ背筋の伸びたクラウディオの背中を、満足そうに見送った。
クラウディオが部屋を出る間際、ふと足を止めて振り返った。
「アルハンブラ、中庭の花ですが…いつも綺麗ですね」
「業者に頼んでいる」
わざと無機質な声で返せば、クラウディオは「そうですか」と穏やかな声でつぶやくと、扉が閉めた。
彼女はしばらく、閉じた木製の扉の木目を見つめていた。
それから、窓の外の花を眺める。
それは、彼女が自ら土を掘り、種を蒔き、毎朝欠かさず水をやってきた花だ。
業者など、一度も呼んだことはない。
けれど、それを明かすつもりはなかった。
毎朝、水をやりながら。いつか彼が、復讐という名の長い夜を越えて前を向く日が来たら、その視線の先に、せめて一輪でも美しい色彩があってほしい。
ただ、それだけを願って、彼女はこの長い年月を、名もなき花と共に生きてきたのだ。
花が、また風に揺れた。
彼女の祈りに応えるように、朝の光を浴びて。
それはただ、そこに咲いていることを誇っているようだった。




