Sketch:13-1 グイード
クラウディオが職場復帰を果たす朝、グイードはいつもより一時間早く分署に現れた。
特別な理由があったわけではない。ただ、しんとした早朝の空気の中で、自分の手元を動かしていたかった。それだけだった。
一ヶ月分の滞っていた書類を、一枚ずつ丁寧に分類していく。
日付を確認し、漏れがないかを精査し、分厚いファイルへと綴じていく。クラウディオや、その上の人間が目を通した際、一目で状況が把握できるように。グイードは、まるで自分の中の不安を一つずつ整理するかのように、淡々と、けれど執拗なまでにマメにその作業を繰り返した。
定刻になり、やってきた同僚たちに「お前、見かけによらずマメだよな」と、からかい混じりに感心されたが、グイードは鼻を鳴らして睨みつけるだけで、決して手を止めなかった。
しばらくして、分署の重い木製の扉が開いた。
途端に、署内が沸き立つ。一ヶ月ぶりに戻ってきたクラウディオを、同僚たちが歓声と拍手で迎え入れる。喜びを爆発させる者、涙ぐみながら背中を叩く者。その中心にいるクラウディオは、困ったように眉を下げ、どこか気恥ずかしそうに微笑んでいた。
騒がしい歓迎の嵐がようやく収まり、クラウディオが自分の席に腰を下ろす。いつもの場所に荷物を置き、彼が腰掛ける音を確認してから、グイードは素早く視線を書類へと戻した。
「……っス」
「おはよう、グイード」
「……っス」
二回同じ挨拶を返してしまった自分を、馬鹿みたいだと思った。けれど、他の言葉は喉の奥に張り付いたまま出てこなかった。
クラウディオがデスクの上の書類に手を伸ばす。
その指先が、完璧にファイリングされた書類の背表紙で止まった。ただ綴じられただけではない。項目ごとに等間隔で並び、重要度に応じた色分けがなされている。それは、複雑な事件の全容を一目で理解させるための配慮そのものだった。
「これ…ずいぶんとわかりやすくまとめてくれているね。誰がやってくれたんだい?」
グイードはわざと窓の外へ視線を投げ、聞こえないふりをして自席のペン立てをいじくり回した。けれど、背後からの包囲網はすでに完成していた。
「はーい、それをやったのはグイードくんでーす!」
「ッ、おいてめ…!勝手なこと――」
同僚たちが、暴れるグイードを羽交い締めにして引き戻す。賑やかな笑い声が、一ヶ月間凍りついていた署内の空気を心地よく震わせた。
「こいつ、アンタが戻るまで毎日遅くまで残ってたんだ。オレたちが適当にホチキス留めしようとしたら、『そんなガタガタな資料で、クラウディオさんに無駄なリソースを使わせる気か!』って、ものすごい剣幕で怒鳴り散らして。全部イチから作り直してたぜ」
「律儀を通り越して、もはや執念ですよね~見てくださいよ、この文字。キャップが読みやすいようにって、わざわざペンまで新調して書いてるんですよ~」
同僚たちに暴露され、グイードの耳の裏までが沸騰したように真っ赤に染まる。グイードの怒号が我先にへと同僚たちへと向かった。
クラウディオは、一冊のファイルを開いた。そこには、彼が不在だった時間の重みと、それを少しでも軽くしようとした青年たちの、優しさが詰まっていた。
情報の優先順位が整理され、迷うことなのない、わかりやすい構成。
それは、単なる事務作業ではなく、クラウディオへの「信頼」を可視化したような手触りだった。
「……そうなのかい、グイード」
「……別に。資料が散らかってると、イライラする質なだけで」
ニヤニヤと笑う同僚の手を振り払い、グイードはそっぽを向いた。ぶっきらぼうに吐き出された嘘を、クラウディオは優しく包み込むように笑った。
「ありがとう。おかげで初日から、何の不安もなく仕事に取りかかれるよ」
その言葉は、感謝というよりも、魂の共鳴に近かった。グイードは「…っす」と呟き、くしゃくしゃになった自分の前髪を乱暴に掻き回した。
本当のことを言えば、この一ヶ月、彼は生きた心地がしていなかった。
いや、それはあの日、古い廃屋で倒れているクラウディオを見つけた時からずっと続いていた
鳴り響いたクラウディオの端末。応答しても声はなく、ただ、死がすぐ側まで来ていることを知らせるような、浅く、途切れがちな呼吸音だけが聞こえていた。
逆探知をして辿り着いた先で、泥のように動かない人形のようなクラウディオの体を見たとき、グイードは自分の血の気が完全に引いていく音を聞いた気がした。
意識のない彼を、毎日病院に訪ねた。「今日も変わりないですよ」という看護師の言葉は、まるで「彼はまだ戻ってきませんよ」と言われているようで、吐き気がした。
あの人は、犯人を探していたのではなく、自ら手を汚す気でいたのか。それとも自分の死に場所を探していたのか――そんな考えが、何度も頭をよぎった。
けれど、それは決して口にしてはいけない呪いのように、グイードは胸の奥に閉じ込めてきた。
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昼前の聞き込みの道中、グイードは一歩下がってクラウディオの背中を追った。
あの日と同じ。石畳の継ぎ目を踏まないように歩く、不規則で落ち着かない足取りのまま。その背中をずっと見つめ、考え続けていた。
その思考は、ふいに言葉となって口から零れ落ちた。
「復讐、しなくて良かったんスか」
クラウディオの足が、止まった。
ゆっくりと振り返る彼を、グイードは射抜くような、それでいてどこか怯えた眼差しで見つめ返す。
クラウディオが目を覚ます二日前、あの犯人は別の事件の捜査網にかかり、逮捕された。男は今、クラウディオの復讐の手の届かない場所で、法の裁きを待っている。
クラウディオが何年も、何十年も執念を燃やし続けてきた相手。
その決着が、こんなにあっけなく、他人の手によって付けられてしまったことを、彼はどう思っているのか。
「ああ。……良かったと思っているよ」
「なんで」
「なんでって……それが正しいことだからね」
「そんな綺麗事じゃなくて」
思ったよりも強い声が出てしまったと頭でも理解する。
だが、今まで溜め込んできたその言葉は、止めることができなかった。
「納得、してるんスか。アンタがずっと探してた相手だ。それを、他人の手で片付けられて。……本当は、自分の手で殺したかったんじゃないスか」
踏み込みすぎだとはわかっていた。けれど、訊かずにはいられなかった。
クラウディオは驚いたように目を見開いたが、やがて視線を落とし、しばらく沈黙した。
「……納得しているよ。と言っても、完全にとは言えないかもしれないけれどね。迷いはまだ、少しだけ心に残っている」
グイードはわずかに顔をしかめた。その正直すぎる答えが、かえって痛々しかった。
けれど、クラウディオは続けた。
「それでも、楽になったんだ。僕のこの命は、誰かを憎むためではなく、ただ前を向くためにあるものだと……少しずつわかってきたからね」
その言葉を、グイードはゆっくりと、自分自身の喉の奥へと飲み込んだ。
楽になった、と。あの、いつ消えてもおかしくなかったクラウディオが、呪いではなく、自分のために生きることを選んでくれた。
グイードはふいに全身の力が抜けたように、その場にうずくまった。
クラウディオが慌てて「どうしたの? どこか痛むのかい?」と声をかけてくるが、彼は顔を上げることができなかった。
大きく、深い、安堵のため息を吐き出す。
視界が少しだけ滲んだが、それは走ってきたせいだと言い聞かせ、くしゃくしゃになった顔のまま、小さく告げた。
「……良かった」
情けないほどか細い声だった。けれど、それが偽らざる本心だった。
「え? ごめん、何だい?」
「……いーえ! 何でも!」
グイードは乱暴に頭を掻き回すと、弾かれたように立ち上がり、クラウディオを追い越して歩き始めた。
靴の底に伝わる石畳の確かな感触。彼はわざと、背筋をピンと伸ばして歩いた。
理由はなかった。
ただ、そうしたかった。ただ、前を歩く自分の背中が、クラウディオに見えるように。




