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Sketch:13 余白は、黎明に溶けていく

退院から一ヶ月ほどが経った。

右の脇腹に刺さるような鋭い痛みはもうない。ただ、無理に体を動かすと、古びた羊皮紙が引きつるような、小さく鈍い違和感が残っているだけだった。


朝、いつもと同じ時間に起き、いつものように制服を整える。

鏡の前で、クラウディオは一つひとつ丁寧にボタンを留めていった。襟を正し、鏡の中の自分を見つめる。そこには、復讐に燃えていたかつての鋭い男ではなく、ただ静かに明日を見据える一人の男がいた。


ただ一つ、以前と違う習慣がある。

上着のポケットに、くすんだ白の古いボタンをそっと忍ばせる。指先に触れるその小さな丸みと、微かな体温。それは今や、彼が世界と繋ぎ直した心の(いかり)のようなものだった。


町の外れにある小さな墓地は、柔らかな木漏れ日に包まれていた。

石造りの塀に囲まれたそこは、時間の流れが他より少しだけ緩やかな気がした。季節の花が風に揺れ、石畳の小道が墓石の間を縫うように、迷いなく奥へと続いていた。


ミラの墓は、最も奥まった静かな場所にあった。

苔のついた白い石の墓標。けれどその周りは、誰かが慈しむように手入れをした形跡があり、不思議と寒々しさはなかった。墓標の前には、すでに一束の乾いた花が置かれている。

クラウディオは持ってきた白い花を、その隣にそっと供えた。「誰かへのプレゼントですか?」と花屋の店主に聞かれ、「大切な人への贈り物です」と答えて選んだ花だ。


クラウディオは墓標の前にしゃがみ込み、刻まれたミラという文字を、指でなぞるように見つめた。


「……来たよ。遅くなってごめん。いろいろあったんだ」


石造りの塀を越えてきた風が、クラウディオの頬をかすめ、足元の木の葉をさらさらと躍らせる。

彼は冷たい墓標に語りかけた。この一ヶ月の出来事を、まるで昨日の夕食の献立を話すような。淡々と、けれど温かな調子で話し始めた。


犯人が捕まったこと。

自分の手で裁く機会を、静かに見送ったこと。

鴻上と、その奥さんと一緒に囲んだ食卓の賑やかさ。

グイードのぶっきらぼうの優しさや成長。アルハンブラが置いていった、不器用なほど素朴なパンの味。

それらが、彼の「今」を、現実に繋ぎ止めていた。


クラウディオは一度言葉を切ると、上着のポケットに手を入れた。

指先が、あのくすんだ白のボタンに触れる。

そしてその隣に、四つ折りにされた古い紙の感触があった。

あの日、ミラがくれた手紙。あの後、自宅へ戻った際に思い出したかのように開いた、戸棚のなかの手紙。

読める日が来るだろうか…。いや、きっと来る。そう急ぐこともない。ボタンがここにあるように、手紙もまた、然るべきときに開かれるのを待っている。


「ミラ…あの時、君がくれた問いの答えを、僕なりに考えてみたんだ」


彼はボタンをそっと握りしめた。古いプラスチックの、頼りないほど小さな質感。

ただ、誰に聞いてもらうわけでもなく。独り言のように、けれど、まるでそこに彼女がいるかのようにゆっくりと語りかけた。


「正直に言うと、いまだに後悔が募ってくる。やっぱり、自分の手でけじめをつけるべきだったんじゃないかって。そんなことを思う日もあるんだ」


墓標は何も答えず、ただ初夏の柔らかな光を跳ね返している。クラウディオは、「けれどね」と自嘲気味に少しだけ笑った。


「それでも僕は、君が守ってくれたこの命を、復讐や贖罪のための薪にはしたくないんだ。それは、僕を守ってくれた君への、裏切りになってしまうから」



彼はゆっくりと立ち上がり、青く澄み渡った空を見上げた。かつて彼を包んでいた「白一色の空虚」でも、「復讐の黒」でもない。あらゆる色が混ざり合い、美しく揺らめく、本物の空の色だ。


「だから僕は、このわだかまりを抱えたまま進むよ。君がくれたこの命を、誰かを憎むためではなく、僕自身の時間として。……それが、君のくれた、僕なりの答えだから」


――だから生きてよ、クラウディオ。あいつの影を追うためじゃなく、あなた自身の時間を。私が守ったのは、他の誰でもない、あなたという存在なんだから。


かつての記憶が、温かな吐息となって空気に溶けていく。

「また来るよ」


そう言ってクラウディオは体を起こして、歩き出した。

今まで、この場所にくると足枷がついたかのように、重い足取りだった。だが、いまは違う。とても穏やかに。心の中が少しばかり晴れたかのような、そんな気持ちだった。


出口へと続く石畳の小道で、一人の女性とすれ違った。

白い花を抱えた、落ち着いた佇まいの女性。一瞬だけ目が合うと、彼女は静かに、けれど慈愛に満ちた会釈をして、通り過ぎていった。


クラウディオも会釈を返し、数歩歩いて――ふと、足が止まった。

振り返ると、その人の後ろ姿が木漏れ日の中にあった。まとめられた髪の色。それは、透き通るような、乳白色だった。少女ではなく、大人の女性の髪。けれど、あの白い世界で別れたミラが、そのまま時を重ねたような、不思議な輝きを放っていた。


女性は迷いのない足取りで、墓地の一番奥へと向かっていく。その背中が木々の陰に消えていったあとも、クラウディオの胸の奥には、陽だまりのような温かさが残っていた。


悲しみは消えない。喪失が埋まることもない。

けれど、あの巨大だった「余白」は、今はもう、朝の光と同じ色をしていた。

クラウディオはポケットのボタンをもう一度だけ指先で確かめると、しっかりと前を向いて歩きはじめた。


靴の底に伝わる石畳の確かな感触。規則正しく並ぶ街灯の列。

見上げた空は、かつてないほど。どこまでも深く、澄み渡った青色をしていた。



一歩、また一歩。

彼は、自らの足で、新しい朝の中へと進んでいった。


-Fin-

町田わこです。

長い長いクラウディオたちの物語を、ここまで一緒に歩んでくださり、本当にありがとうございました。

後日談というかたちで、各キャラクターへ視点をあてたお話もご用意しております。

もしよろしければ、どうぞ最後まで見届けていただけますと幸いです。

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