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Sketch:13 目覚め、そして

最初に気づいたのは、匂いだった。

鼻腔を刺すような消毒液の鋭い匂いと、白いシーツの乾燥した匂い。

それは、あの実体のない白い世界の空虚な白さとは似て非なる、生活と痛みが混じり合った「現実の白さ」を、クラウディオに突きつけていた。


次に、音が戻ってきた。

ピ、ピッと電子音がなる。その管は自分に繋がれていることにきがついた。遠くで陶器が重なり合う乾いた音が聞こえる。廊下を忙しなく行き交う、誰かの規則正しい足音。

そして窓の外からは、石畳の上を、牛乳売りの荷車が軋む音を立てる音が聞こえる。パン屋の煙突からは白い煙が細く立ちのぼり、焼きたての甘い香りがすこしだけ漂ってくる。

彼を置き去りにして進み続けていた街の呼吸が、耳の奥へと流れ込んできた。


クラウディオが重い瞼を持ち上げると、そこには見覚えのない天井があった。病室だ、と直感した。

体はまるで濡れた砂を詰め込まれたように重く、右の脇腹にはじくじくと焼けるような鈍い痛みが居座っていた。けれど、その痛みはどこまでも鮮明で、逃げ場のない「生」の質感を彼に思い出させた。


白い世界では決して触れることのできなかった、血の通った重みのある痛みだった。


「……起きたか」

掠れた声に顔を向けると、窓際の木椅子に腰かけた鴻上の姿があった。

外の世界で現実の光を浴び続けてきたであろう日焼けした肌には、無精髭がうっすらと生え揃っている。

その黒いベストには、いつ付いたのかもわからない新しい絵の具の染みが、無数の星座のように散らばっていた。膝の上で革鞄を抱きしめるように掴んだまま、鴻上は充血した眼差しをクラウディオに向けた。


目の下に刻まれた深い隈は、彼がこの無機質な部屋でどれほどの祈りと焦燥を積み重ねてきたかを、静かに物語っていた。


「……、…こう、がみ?」

「よお」


鴻上は短く答えた。

その声は、長い間使われていなかった楽器のように、ひどく掠れていた。


「遅かったな。お前を待っている間に、オレの鞄の画材が腐っちまうところだったぜ」

「僕は、いったい」

「アホ。覚えてねえのか」


呆れたように鴻上は小さく肩をすくめた。だがその声は、張り詰めていた糸が解けたような安堵を孕んでいた。

あの日、古い廃屋で刺されたクラウディオを同僚が見つけたこと。

三日間、生死の境を彷徨っていたこと。

そして鴻上が、その間ずっとこの椅子で彼を見守り続けていたことを、簡潔な言葉で伝えた。


「そ、うか…三日も、経っていたのか」

「おかげで妻には大目玉だ。不潔だから帰ってこいってな。お前の看病にかこつけて、ろくに風呂にも入ってねえのがバレちまった」


「帰れば、良かったのに」

「……帰れるかよ。お前がこんなところで一人、勝手に死にそうな顔をしてるってのに」


ぶっきらぼうに吐き出されたその一言には、長い歳月で培われた、友情という名の重厚な響きがあった。

クラウディオの頬が、わずかに緩んだ。笑うたびに脇腹の傷が引きつり、痛みが走る。けれど、その痛みこそが、彼がこの地上の重力に戻ってきたことの何よりの証明のように思えた。


「ありがとう、鴻上」

「礼なんて言うな。……オレの柄じゃねえ。オレは頼まれただけだ。」


鴻上はふいと窓の外に視線を逸らした。「頼まれただけ」。

その言葉を聞いた瞬間、クラウディオの胸に温かな風が吹き抜けた。

きっとそれは、今まで名を伏せてきた「あの子」のことだ。


自分の知らないところで、鴻上はミラと約束をしていたのだろう。お節介な二人組だ、と彼は思う。この男は、ミラがいなくなったその後も、独り静かにその約束を守り続けていたのだ


「……ミラも君も、本当に変わらないな」

「おまえ、…いま…」


はっとしたように鴻上がつぶやく。

その続きを聞きたそうに身を乗り出したそのとき。静寂を切り裂くように扉が勢いよく弾け飛んだ。


「っ——生きてる!! 」

飛び込んできたのはグイードだった。

肩を激しく上下させ、乱れた制服の襟さえ直さずに突っ込んできた彼は、ベッドの柵を思い切り掴みながら立ち止まった。

赤くなった目からは、安堵と怒りが綯い交ぜになった涙が、今にも溢れ出しそうになっていた。


「なんで目ェ覚めてんですか急に! 看護師さんから聞いてッ、オレ走ってきたんすよ! 三日間なんも変わんなかったのに、なんで今日――」

「グイード、元気そうだね」


「元気そうだね……って、はぁああ!? ふざけてンのか……!!」


憤慨しながらも、グイードの瞳は真っ赤だった。

泣きはらしたのか、遮二無二(しゃにむに)走ってきたせいなのか、その両方なのだろう。


「馬鹿みたいに心配したんスよ。それなのにアンタは――」

「ごめん」

「謝んないでください、余計腹立つ」

青年は乱暴に目元を拭い、鼻を啜りながら、それでもクラウディオから一瞬たりとも目を離そうとしなかった。鴻上はその騒がしい再会を眺め、不器用な微笑を口元に浮かべた。


「お前がグイードか。あれだろ、分署の狂犬クン」

「は…、なンだお前…クラウディオさん、誰スかこいつ、例の不審者スか」

「おいおい、オレはだなぁ……」


病室に、クラウディオの知るいつもの体温が戻ってくる。

二人の他愛のないやり取りを遠い羽音のように聞きながら、彼は再び目を閉じた。脇腹が痛む。


けれど、その痛みこそが心地よかった。


…………………………………………………………………


夜、鴻上が帰る前に、病室はまた静かな二人きりになった。

革鞄のなかに、いつものようにスケッチブックと炭、そして絵の具など様々な道具をいれている。ふいにその様子が、白い世界にいたときと重なって思わず声をかけた。


「鴻上」

「ん」

「僕は…気を失っている中で。キミを見た。真っ白いキャンバスのような世界で、君が助けてくれた。絵を描いて、扉を作ってくれて。それで…」


鴻上は一瞬、呆気に取られたような顔をした。それから、鼻で短く笑った。

「何言ってんだ、お前。…オレはずっとここにいたぞ。この硬い椅子に座ってお前の寝顔をスケッチしようか迷ってただけだ。三日間、この部屋から出てねえよ」

「でも、確かに君がいたんだ。君が描いた扉を通って、僕は…」


「あーうるせぇうるせぇ。夢の中まで俺を使うな」

著作権料でも請求すんぞと。ぶっきらぼうに鴻上はいう。ガラスに滲む夜の街灯が、彼の瞳をわずかに潤ませているように見えた。


「ただ……そうだな。お前が、オレを必要としてくれた。死にかけたお前の意識が、せめて慣れ親しんだオレの姿を借りて、自分自身を救おうとしたのかもな」


クラウディオはしばらく黙っていた。それだけでは説明のつかない何かが、まだ胸の奥に残っている気がした。けれど、それを言葉にする必要はなかった。彼は立ち上がり、革鞄を肩にかけ直した。


「んじゃ、オレは帰るぜ。これ以上遅いと、本当に家に入れてもらえなくなる。…お前のために描いた絵は全部(ボツ)にしてやるからな」

「ありがとう、鴻上」

「……退院したら飯だ。奢れよ、一番高いやつをな」


扉が閉まり、廊下に響く鴻上の規則正しい足音が、画材の触れ合う微かな音と共に遠ざかっていく。

一人になった暗い部屋で、クラウディオは枕元に置かれた自分の制服に、そっと手を伸ばした。

重い腕を動かし、使い古されたポケットの中を探る。指先に、不自然なほどの硬質な感触が触れた。


取り出したのは、小さなくすんだ白のボタンだった。

クラウディオは指先の感触を確かめながら、記憶を辿った。

あの日、引き出しに戻して、閉めた。いつもと同じように。持ち出した覚えはない。

分署を出るとき、ポケットに移した記憶もない。


なのに、それは確かにここにあったそれなのに、あの体験が。まるで夢でもないかのように実態がそこにある。時間という潮風にさらされたような、古いプラスチックの質感。

持ち帰れるはずのない、あの世界からの「忘れ物」。


手のひらの上に乗せたボタンは、夜の冷気の中でも、なぜか微かな熱を帯びているように感じられた。窓の外には、冴えざえとした星が、手の届かない場所で輝いている。


クラウディオはそのボタンをそっと握りしめた。

耳を澄ませば、どこか遠い場所から、「またね」という、あの晴れやかな声が聞こえる気がした。今夜は、もう何にも追いかけられることなく、深く穏やかな眠りにつけそうだった。


窓の外が、ゆっくりと明るさを取り戻し始める。

ミラがいない現実は、相変わらない。

けれど、視界を埋める朝の光が、彼女の髪の色と似ていることにクラウディオは気づいた。


その巨大な余白さえもが、今は光の一部として、彼の胸を静かに満たしていた。

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