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Sketch:10 憎悪の彩

ぽたり。ぽたり。

赤い鮮血が、無垢な白い余白を容赦なく染め上げていく。


その赤に応えるかのように、足元から少しずつ、世界の質感が変わり始めていた。それは灰色でも、単なる闇でもなかった。もっと深く、光を一切反射しない底のない色が、じわりと床に滲み出している。

クラウディオの足元から、その黒は音もなく波紋のように広がっていった。


「僕が……」


掠れた声。それは、言葉を紡ぐことさえ苦痛であるかのような悲痛な響きだった。クラウディオは、今やミラとしての輪郭を保ちつつある少女に向き直った。


「僕があの時、代わりになっていれば……。君が、死なずに済んだのに」

それは悲鳴にも似た、震える告白だった。

握りしめたガラスの欠片をさらに強く、自らを傷つけるほどに握り込む。

手のひらから滴る赤が、白い床に落ちるたびに、その一滴一滴が記憶の重さを持っているかのようだった。


「僕が弱かったから。僕が動けなかったから。あの時と、同じ。変わることなく、弱いままだったから——」


声が震えた。喉の奥から絞り出すように、言葉が漏れていく。

「君は、僕の代わりに……庇って……」


続きを、声にすることができなかった。

その先にある言葉を口にしてしまったら、何かが決定的に壊れてしまう。壊れてしまうとわかっているのに、記憶が次から次へと押し寄せてくる。


廊下に崩れた体。閉じていく瞳。読めなかった唇の動き。あの夜の雨の音。

白かった床が、少しずつ侵食されていく。膝をついたまま、彼は自分の手を見た。赤く汚れた手。

あの夜、ミラを抱き上げたとき、この手は同じ色に染まった。洗っても、洗っても、決して取れることのなかった記憶の色。


「……どうして、僕じゃなかったんだ。」


沈黙が落ちた。黒い、底知れない沈黙だった。

鴻上も、ミラも、何も言わなかった。川の音も、鳥の声も、もうどこにもない。クラウディオの、壊れかけた呼吸だけがこの世界に響いていた。


その中で、何かが変質した。

罪悪感は、ある一線を超えると、自分を責める刃から他者を貫くための矛へと形を変える。あまりに深く、長く自分を呪い続けた心は、その痛みの()()を、別の場所に求め始めるのだ。

クラウディオの目から、光が消えた。代わりに、もっとくらい、濁った何かが灯った。



「……だから」


声の温度が変わっていた。悲痛さは消え、震えも掠れも止まっていた。ただ冷たく、凪いだ水面のような声。ゆっくりと顔を上げたその瞳には、涙の跡があった。けれど、泣くことをやめた目は、泣いている目よりもずっと、怖かった。


「あの男を、殺す」


静かだった。怒鳴ることも、震えることもない。ただ、確定した事実として、その言葉を吐き出した。

復讐という感情は、怒りから生まれるのではなかった。自分を責め続けることに疲れ果てた心が、最後にたどり着く場所。それが、この言葉だった。


「……だから、言ったのに。なにも知らないまま帰ってほしいって」

ミラは今にも泣き出しそうな瞳で、彼を見つめていた。彼女が心の引き出しを固く閉ざしてまで隠し通したかったもの。

それは、クラウディオの三十余年という長い歳月を呪縛し続けてきた、この真っ黒な憎悪そのものだったのだ。


鴻上が立ち上がり、低い声でその名を呼ぶ。

「クラウディオ、お前——」

「黙っていてくれッ!!」


声が、裂けていた。

「三十年…三十余年だ!僕はミラが死んでから、ずっとあの子のために生きてきた。刑事という仕事に就いて、人を守ると言いながら……守れなかった相手のことを、ずっと悔やみながら、その影を追いかけて生きてきたんだ」


彩域の輪郭が、音を立てて崩れ落ちる。

ゴンドラから眺めたあの石畳が消え、建物の影が溶けていく。鴻上と共に描き出してきたはずの温かな思い出たちが、ひとつ、またひとつと、暗闇に飲み込まれていった。


「僕がなぜ警察官になったか——そんな話をしたね、鴻上」

「……ああ、そうだな」

「見せよう。僕がその裏側で、何を想い続けてきたのかを」


クラウディオが静かに目を閉じると、黒く染まった空間に、三十余年という歳月が重い濁流となって押し寄せてきた。


…………………………………………………………………


あの夜の後、クラウディオはただ立ち尽くしていた。

生命の灯が消えたミラを抱き上げ、頬を伝う大粒の涙が彼女の動かない体の上に落ちるのを、ただ見ていることしかできなかった。

ほどなくして両親が駆けつけ、彼を抱き上げ別室へと運んだが、クラウディオの瞳の奥には冷たい廊下で永遠の眠りについた「彼女だったもの」が、焼き付いて離れなかった。


それからというもの、クラウディオは自分を責め続けた。

彼女を失ったのは、自分が弱かったからだ。自分がもっと強ければ、あんなことにはならなかった。

ミラの葬儀に出席した鴻上が、何か言葉をかけてくれたような気もする。けれど、当時の彼の耳には、どんな慰めもただの空虚な音としてしか届かなかった。


――強くならなければ、守れない。ならば、強くなって、それから……。


覚悟を決めた。それからだった。

鴻上と少しずつ疎遠になり、誰かと壁を作り続けた。彼が“正解”のない復讐の道へと足を踏み入れたのは。


ある時期、クラウディオは警察の捜査さえ待たず、独力であたりを徹底的に嗅ぎ回っていた。

男の逃走ルート、素性、人間関係。どんなに汚れた情報でもいい、それを拾い集め、繋ぎ合わせることに、彼の人生のすべてを()べた。


だが、その度を超えた執念が仇となり、彼は分署の警察官たちに取り押さえられた。地面に組み伏せられ、冷たい石畳が頬に押しつけられる。


『お前か。ちょこまかと嗅ぎ回っているネズミは』

少年が、夜の裏路地で泥まみれで、大人たちに押さえつけられている。

クラウディオは、組み伏せられたまま、まっすぐ前を見ていた。その目が、異様だった。子どもの目ではない。執念深く。まるでなにかに取り憑かれたかのような、強い灯火。


『離せ!』

『黙れ。お前がやっていることは捜査妨害だ』


そのとき、硬い靴音がした。規則正しく、迷いのない足音。

赤い髪をなびかせ、眼鏡の奥で鋭い光を放つ女性が、路地の奥から歩いてきた。腕を組み、冷徹な視線でこちらを見下ろす。アルハンブラだった。

彼女はしばらく、地面に這いつくばった少年を見ていた。泥だらけの顔、擦り傷だらけの手、それでもまっすぐ前を見ている目。何かを測るように、眼鏡の奥の瞳が動いた。


『このあたりの捜査は、我々の管轄だ。これ以上妨害するのであれば、容赦はしない』


事務的に、けれど否定できない重圧を持って告げた。血の気がひいていくのがわかる。「だが…」とつけたしたかのように、アルハンブラは、クラウディオに視線を落とした。


『お前の目に宿るその炎を正しく扱おうとするならば話は別だ。――どうだ。我々の側でその炎を燃やしてみるか』

冷たい声だった。けれどその冷たさの奥に、何かがあった。理解、とは違う。共感、とも違う。

ただ——同じ方向を見ている人間だけが持つ、静かな了承のようなもの。


(それがあれば、あの男に一歩、近づけるかもしれない……)

クラウディオは泥にまみれた顔を上げ、二つ返事でその手を取った。それが、彼のすべてを捧げた“仕事”のはじまりだった。


なぜ刑事になったのか。

同僚や市民に問われるたび、彼は「人を守りたいから」と答えてきた。それは嘘ではなかったが、決して本当の目的でもなかった。

本質はそんな綺麗なものじゃない。ただ、追うこと。自分の手で裁くこと。

あの夜、廊下の闇に立っていた男を、自らの手で地獄へ引きずり下ろすこと。


それだけが、ミラに贈ることができる唯一の供養だと、彼は信じて疑わなかった。

彼女がいなくなってから三十年間、クラウディオは一度として、本当の意味で眠れる夜を過ごしてはこなかったのだ。


…………………………………………………………………


目を開けた。黒が、さらに速度を上げて広がっていた。

天井までが浸食され始め、かつて彩域で取り戻したはずの穏やかな景色は、もうどこにも残っていない。すべてがミラを救えなかったあの夜の色に塗り潰されようとしていた。


「……これが、僕の三十余年だ。あれから、何も見つからなかったわけじゃない。けれどあと一歩というところでいつも影のように消えてしまう。そうして見つからないまま、僕は年を取ったんだよ」


クラウディオの瞳には、以前のような柔らかな光は宿っていなかった。そこにあるのは、ただ深く、昏く、執念深く燃え続けている復讐という名の色だけだった。


「……なら、なおのこと法で裁けばいいだろう。お前が自ら手を下す意味なんてどこにもないはずだ」

鴻上がゆっくりと、淡々とした口調で告げる。友としての、そして唯一の幼馴染みであり観測者としての理性的な静止だった。けれど、クラウディオは力なく自嘲気味に笑った。


「法で裁く?笑わせないでくれ。あの男を法廷に立たせたところで、ミラは戻らない。判決がどんなものであっても……裁いても裁ききれないんだ。証拠も、証人も、三十余年の間にどれだけ風化したと思う?見つけたところで、もう法が届く場所にいるとも限らない」


それに、とクラウディオは虚ろな瞳で小さく呟いた。

「法は僕の代わりに怒ってはくれない。ミラのために泣いてもくれない。だから僕の手で終わらせる。そうでなければ、ミラは報われない」


死んだ彼女の時間は、誰が取り戻してくれるというのか。


そのとき。

今まで静かに膝を抱えていたミラの手が震え始めた。両手を握りしめて、また開いて。膝を抱えていた腕に力が入って、指先が白くなっていた。やがてクラウディオの前に、静かに立った。


「誰が決めたの」


声が、小さく震えていた。けれどその震えの中に、今まで聞いたことのない鋭さが混じっていた。

クラウディオの思考が、ぴたりと止まった。


「私が報われないって、誰が決めたの。…クラウディオが決めたの?」

「……」

「あの男が死んだら、私は報われるの?クラウディオがその手を汚して、これからの人生を台無しにしたら、私は喜ぶと思うの?」


ミラの声が、強くなった。

その一言が、黒い空間に響く。琥珀色の光は、闇に侵食されたこの世界で唯一、濁ることなく輝いていた。


「わたしが…ッ!わたしが、あなたのことを、何一つ見てきてなかったとでも言うの!」

ミラの声は、ひび割れたクラウディオの心に染み込むように続いた。


「眠れない夜があったのも、知ってる。アルハンブラに拾われて、グイードに支えられて、それでもずっと眼の奥に火を持ったまま生きてきたのも——全部、知ってる」


クラウディオは、息をすることさえ忘れてミラを見つめた。知っている。彼女はそう言った。


この三十余年間、自分が孤独だと思っていた夜も、復讐を誓って冷たい壁に向かっていた時間も。

この子はずっと、すぐ隣で、同じ痛みを感じながら見ていたのだ。


「だからこそ、聞いてほしい」


ミラは逃げ場をなくすように、一歩、クラウディオに近づいた。

琥珀色の瞳が、かつてないほど強く、そして悲しげに彼を射抜いた。

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