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Sketch:9 宵闇の残響

しん、とした音のない空間が広がった。

あたりはくらい宵闇の色で染まり、いままでのような温かさは、どこにもなかった。

今までは野外だったが、今回は室内だった。

重厚なはり。磨き込まれた床板。壁にかけられた肖像画。広い廊下の木の床が、月のない夜に黒く沈んでいた。


クラウディオは、その廊下に立っていた。

懐かしい木の香りが鼻腔をくすぐる。ここが自分の生まれ育った家であることに気づくのに、時間はかからなかった。何もかもが、あまりにも鮮明に「そこ」にあった。けれど、幼い自分の姿だけがどこにもない。


そのとき、廊下の一室からきぃ、と音を立てて扉が開いた。

寝間着を着た男の子が、まだ眠気を帯びたような顔で目元をこすりながら廊下に立っている。

トイレだったのか、それとも何か気になって目が覚めたのか。男の子は裸足のまま、遠くの階段をゆっくり、ゆっくりと降りていった。


クラウディオは、その背中をただ見つめていた。

あの夜の自分だ。胸の奥が、氷を飲み込んだようにきしんだ。


そのざわつきに応えるかのように、今度は別の扉がわずかに開いた。

家の使用人だろうか——そう思いながら人影の見える方へ向いた瞬間、背筋が凍りつく。

幾度となく探し続けてきた、あの「男」だった。

まだ若く、帽子を深く被り、手には何かを握っている。男は音もなく幼いクラウディオの後を追い、追いついた途端、その口元を薬品の染み込んだ布で乱暴に覆った。突然のことに体がばねのように跳ね、「んー!」とくぐもった声を上げながら暴れている。


『おっと、動くなよ——安心しな、殺しはしないさ。()()()


男の低い囁きと共に、ナイフが幼い自分の方へ近づけられる。

クラウディオは手を伸ばしたが、指先は空を斬るだけだった。見ることしか許されていない無力さが、刃物のように鋭く胸をえぐった。


少しずつ、記憶の断片が繋がっていく。心拍が、異常なほどに跳ね上がる。

――そうだ。これは僕の、人生が歪んだ瞬間の記録だ。


『しっかし…忍び込んだ先に、まさかお目当ての御子息がいるとはな。恐れ入ったぜ。金のためだ。しばらくは眠ってもらうぜ』

独り言のように呟きながら、口元を覆う布に力が込められれば、幼いクラウディオは、酸欠になりそうで、足をばたばたとさせていた。しかし、足が徐々に力が抜け緩やかになっていた。


そのとき、隣の部屋の扉が開いた。

廊下に現れたのは、小さな女の子。これまでほのかな光に包まれていた少女の輪郭が、この宵闇の中で初めて生々しい色彩を帯びていく。乱れた髪、半分閉じた瞳。


『クラウディオ?——なにしてるの…?』

ゆっくりと目元をこすりながら、廊下の先を見つめた。

けれど、男を見た瞬間、彼女の瞳に鋭い光が宿った。幼いクラウディオが涙を浮かべながら、布で口元を覆われている。それがわかった瞬間、少女はとっさにそばの柱にあった花瓶を両手で掴んで、廊下に叩き落とした。


――ガシャン!


音が屋敷中に響くと、男が一瞬たじろいだ。

その隙に、少女はクラウディオと男の間に飛び込むと、男の腕に思い切り噛みついた。小さな歯が、大人の腕に食い込んだ。


『ッ——!!』

痛みで男の手が緩む。幼いクラウディオが口元の布から解放されて、むせるように息を吸う。

その瞬間、少女はクラウディオの腕を引き寄せて、自分の背中に隠すように立った。細い足が、小刻みに震えていた。それでも彼女は、一歩も引かなかった。


『あなた、だれ!?クラウディオになんの用…!?』

『——ッ、くそ、うるせぇガキだな…!!』

ガキは大人しく寝てなッ!と男がクラウディオを連れ出そうと動いた。

だが、少女は両腕を広げて、必死に阻み続ける。小さな体で大人の体にしがみついて。引っ掻いて、押し返して。何度も振り払われながら、それでもまた立ち上がった。


『——逃げて!はやく!!おじさまかおばさまのところへ!』

いつもよりもずっと大きな声で少女は叫んだ。

屋敷の天井にこだまするほどの、高く、必死な叫び。


クラウディオは見ていた。見ることしかできなかった。だが、喉が異様に乾く。

これからなにが起こるのか、クラウディオには検討がついていた。だからこそ、小さく「やめろ…」とか細く、祈るような声で呟いた。

幼いクラウディオが涙をこぼしながら、こくり頷くと、うまく歩けない足取りで、少しずつ距離を取っていく。


男はその様子に焦ったのか。クラウディオに目もくれず、今度は眼前の少女へと牙を剥いた。

『黙っていれば——このガキッ!!』

「――やめろッッ!!」


男の怒号と、クラウディオの声が重なった。思わず体が動き、彼女の前に割って入ろうと盾になった。だが、男の腕は虚しくもクラウディオの体をすり抜けていく。


その刹那。鈍い音がした。やわらかいものを貫く音だった。

「あ、あぁ」

ずるり。

少女の体が傾く。突然、すべての力が抜けたかのように。クラウディオは手を伸ばしたが、届かなかった。男は傍にあったナイフで少女の胸を突き刺すと、乱暴に床へと投げ捨てた。少女は、磨き上げられた床板の上に、だらりと崩れ落ちた。


やがてその騒動を聞きつけるかのように、屋敷の一階に灯りがつき始めた。

住人たちの声がし始める。潮時だと判断したのか男は舌打ちをひとつすると、幼いクラウディオを睨みつけながら走り去った。


廊下の窓のガラスを突き破って、闇の中へ消えていく。破られた窓から、小雨が吹き込み始め、遠くで雷が鳴った。一瞬の光が、廊下を白く照らした。


膝をつく幼い少年。

少女の胸部から広がる赤が、磨き込まれた床板をゆっくりと汚していく。クラウディオも同じように、膝をついてその名を呼んだ。けれど声にならない。何もできなかった。あの頃も、今も。


少女は、静かに目を開けていた。

ヒュー、ヒューと苦しそうに肩を上下させながら、彼女はただ、クラウディオだけを見ていた。

唇が微かに動く。けれど、その最後の言葉は雨音に消え、彼は読み取ることができない。


『…ねぇ、いやだよ。おねがい、お願いだよ』

大粒の涙をこぼしながら、幼い自分が彼女の体を揺らす。

浅く、短い呼吸が、ひとつ、ふたつ。そして――止まった。

彼女の琥珀色の瞳から色が消え、ゆっくりと、永遠の眠りにつくように瞼が閉じられた。


廊下に、雨の音だけが残り、暗闇がすべてを塗りつぶしていった。

――――――――――――――――――――――――――――――――――


闇が、すべてを飲み込んでいく。少女が目を閉じたその闇が、別の場所へと繋がった。

あるアパルトメントの一室。


ブラインドで締め切られた、光の入らない部屋。だが、壁一面に広がる()()が映った。

犯人の推定、経緯、逃走ルート。事細かにメモされた資料、人間関係図、色褪せた新聞の切り抜きが、何枚も何枚も乱暴に貼りつけられている。

整然とした秩序などそこにはなく、ただ犯人を追い詰めるためだけに編み上げられた、昏い情報の網。


彩域で見たあかずの間の正体。それはまるで、復讐とでも言わんばかりの執念の部屋だった。

鴻上が「まだだ」と言って触れさせなかった、あの部屋の正体がここにあった。

その狂気とも呼べる網の端に、ひときわ古びた紙切れが一枚だけ貼られていた。どこかの新聞の片隅を乱暴にちぎり取ったもので、インクは掠れ、紙の端は何度も指でなぞったのか茶色く変色している。


――"No day shall erase you from the memory of time."

「いかなる日も、あなたを時の記憶から消し去ることはない。」


壁中を埋め尽くす執念と怒りの中で、その一枚だけが、祈りのように静かだった。

そして、その紙切れのすぐ隣に、一枚の写真があった。その紙切れの隣に、一枚の写真。あの日、自分をはげましながらボタンをくれたときのように。あの日、橋の上を三人で並んで帰ったときのように。無邪気でまっすぐな笑顔。その下に記された、最愛にして、最悪の悔恨(かいこん)


――()()

その名前を指でなぞった瞬間、世界は再び、白へと反転した。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


どれくらいそうしていただろうか。

宵闇に染まった色が元に戻り始めてしばらく立っても、クラウディオは動くことができなかった。手の中には、あのガラスの欠片。鋭い断面が手のひらに食い込み、じわり、じわりと赤い滴が白い床に落ちていく。


膝をついた。胸の奥に落ちてきたのは、底のない、あまりにも残酷な真実。なぜ今の今まで、忘れていたのか。忘れてはいけないからこそ、あの一節を刻み続けてきたはずなのに。

あの場に自分がいなければ。あるいは、自分が大人しく連れ去られてさえいれば。彼女は今も、どこかで笑っていたはずなのだ。


「クラウディオ」

ふいに、名前を呼ばれた。視線を向けると、鴻上がスケッチブックを抱えたまま、痛みを分かち合うような、それでいて厳しい眼差しで立っていた。その傍らに、ミュアがいた。彼女はこちらを見ようとはしなかった。


白い床を見つめ、膝を抱えて小さく座り込んでいる。その背中の輪郭が、廊下に崩れ落ちたあの日のミラの姿と、残酷なほど正確に重なった。


かちり。

型に嵌まったかのように、すべてが繋がりはじめる。

ボタン、手紙、そしてこのガラスの冷たさ。

ずっとそばにいたのだ。


「……君、だったんだね。ミラ」

掠れた声に、ミラと呼ばれた少女は顔を上げない。その沈黙こそが、彼女が彼女たらしめる証明でもあった。クラウディオはガラスの欠片をさらに強く握りしめた。


手のひらを汚す赤色が、かつて床板を汚したあの色と混ざり合い、押し寄せてくる真っ黒な感情が、彼の心を蝕み始めていた。

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