Sketch:8 輪郭を断つ硝子
ゴンドラを降り、色濃くなった石畳の上を歩く。
その道は確かな質感を持って、歩くたびにコツコツと乾いた音を響かせた。
遠くに、街灯らしき光がぼんやりと灯っている。
鴻上が描いた線と、クラウディオが自力で手繰り寄せた輪郭。それらが重なり合い、呼応するように、この世界は少しずつクラウディオという男の人生を再構築していた。
ミュアは相変わらず少し前を歩いていたが、その距離は先ほどよりもずっと近かった。それは鴻上も同じだ。三人の距離感は、かつてのように、あるいはそれ以上に密接なものになっていた。
「そういえばよ。お前が刑事になったのは、なんでだったんだろうな」
鴻上の不意の問いに、クラウディオは前を見つめたまま答えた。
「……誰かを守りたかった気がするんだ」
「ほう? 誰かって、誰だ」
「それがわかったら苦労はしないさ」
それもそうか、と鴻上がスケッチブックを開いてクックと笑い始めた。
その時だった。 ふいに、複数の声が混じり合った。
はっきりとした言葉ではない。だが、声変わりしたての少年のような、どこか未完成で青い響き。
制服を着た男の輪郭が、不意に目の前に現れた。クラウディオより若く、少し着崩したようなだらしない佇まいの若者。
続けて、凛とした強さを持つ女性の声が響く。背筋の伸びたそのシルエットが何かを話し、そしてゆっくりと陽炎の中に消えた。
「今のは……」
「ああ。だいぶ輪郭がはっきりしてきたな。そろそろ、名前が出てくるんじゃないか?」
クラウディオの耳の奥に、二つの音が残響していた。 その輪郭に、パズルの最後のピースが嵌まるように合致する名前。
「グイード。……そして、アルハンブラ」
その名を口にした途端、鴻上は待っていたぞと言わんばかりに「ほらな」と笑ってみせた。
「名前だけだ。顔はまだ、霧がかかっているけれど」
「それでいいんだよ。一つずつだ。完成はもうすぐだな」
ミュアが振り返らずに、けれど確信を持って言った。
「……大切な人たちだよ、きっと」
「君は、彼らを知っているのか?」
「どうかな。でもこの世界を歩いているときに、その影を何度も見たよ」
クラウディオは小さく笑った。
目には見えなくとも、仲間たちがそこにいるという実感が彼の足を支えていた。
だが、しばらくして街並みが一変した。石畳が途切れ、建物の影が薄くなっていく。
またあの白が、余白が増えてきたのだ。けれど、それは先ほどまでの温かな白ではなかった。
昼でも夜でもない、どこにも属さない、何かを必死に隠蔽しようとしている――拒絶の白。
ミュアの歩みが、目に見えて遅くなった。鴻上も無言でスケッチブックを閉じる。
クラウディオは気づいた。胸の奥の重さが、今までとは違う鋭利な痛みを持って浮き上がってくるのを。
何もない、均一に塗りつぶされた白い床の上に、それはあった。
ガラスの欠片だ。
親指ほどの大きさで、割れた断面は鋭く、けれど表面は吸い込まれるほど透き通っている。白い世界の光を吸い込んで、その内側で何かが燃えるように、揺れていた。
クラウディオは近づき、膝を折ってその欠片を見つめた。
触れたら最後、もう元の安寧には戻れない。そんな剥き出しの予感に指先が震えた、その時。
「――待って!」
ミュアの、聞いたこともないような鋭い声が響いた。彼女は悲鳴のような、祈るような、ひどく痛々しい顔をしてそこに立っていた。
「ねえ……やっぱりやめよう。もう、十分思い出したでしょう? この思い出だけ置いて、もとに居た場所へ帰ろうよ」
欠片に触れようとするクラウディオを、ミュアは今にも泣き出しそうな瞳で見つめている。
これから起こることをすべて知っているかのような、痛々しい声。クラウディオはそんな彼女を見つめると、穏やかな笑みを浮かべ、慰めるかのように、ゆっくりと言い聞かせた。
「……まだ、君の名前を思い出せていないんだ」
「思い出さなくていいの… 私は、あなたが名付けてくれた『ミュア』でいい。それでいいの!」
必死に訴えるミュア。
彼女が何かを――残酷な真実を、クラウディオから遠ざけようとしているのは明白だった。鴻上はただ黙って見ていたが、二人の間にそっと割って入った。
「嬢ちゃんの気持ちはよく分かる。……けどな、これがクラウディオの選択なら、オレたちが止める義理はねえよ」
「でも……!」
「大丈夫だ。もし何かあったその時は、そん時になって考えようぜ」
鴻上の声は、無責任なようでいてどんな結末も引き受けるという覚悟に満ちていた。
ミュアは「そんないきあたりばったり……!」と怒り始めたが、その姿はどこか年相応の子供らしく、それゆえに痛切だった。
「ありがとう、二人とも。でも――これは僕が君と約束したものだからね」
クラウディオは、優しい声色でミュアを見つめた。
「それに、少しだけ嬉しいと感じたんだ。思い出せることが。……自分を取り戻せることが」
「――ッ!…、…」
ミュアはひどく傷ついたように押し黙り、唇を強く噛み締めた。
そして誰にも聞こえないように、小さく「ばか」と呟いて、その場に膝を抱えて座り込んでしまった。
目の前には、鋭い透明なガラス。
洗練された美しさの中に、禍々しいほどの拒絶を孕んだ最後のピース。
クラウディオは覚悟を決めると、手を伸ばし、その欠片をゆっくりと握りしめた。
世界が、激しく脈打つ。
白かったキャンバスが音を立てて遠ざかり、その上に、昏い宵闇の色が、どろりと滲み、一気に広がっていった。




