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Sketch:7 彩域のゆりかご

余白域よはくいきから彩域さいいきへと変貌を遂げたこの世界は、もはや現実と見紛うほどの質感を持ち始めていた。川のせせらぎ、連なる街並み、重厚な石橋。


そして、雨上がりの潤いを含んだ空気。

まだ細部まで描き込まれているわけではない。けれど、一つひとつの形が確かな色を成し、クラウディオたちの歩みに寄り添うように存在していた。


三人は川沿いを歩いていた。石造りの岸壁に、苔と水草がへばりついている。川面にはときおり光が差して鈍い銀色にきらめていた。

ふいに鴻上が声を上げた。


「おい、見ろよ。ゴンドラだぜ」

海へと繋がるこの川のほとりに、二艘にせきのゴンドラが揺れていた。

古い木造の船体が、川の流れにゆるゆると揺れている。鴻上は革鞄を肩にかけ直し、子供のように声を弾ませた。その無邪気な表情が、今の彼には不思議と似合っている。


「せっかくだし乗ろうぜ! ずいぶんと歩き通しだったんだ。ここらで景色でも眺めながら、一休みしようじゃねえか」

「もう…遊びじゃないんだよ?なんだか旅行とでも思ってない?」

「いいだろ?どうせここじゃ乗船料も取られねえんだ。一休みだ、一休み!」


そう言って笑うと、鴻上は躊躇うミュアの脇をひょいと抱え上げ、軽々と船へと運び入れた。

ミュアが小さく「おろして」と抗議したが、もう船の上だった。

クラウディオは、相変わらずこの男に「遠慮」という概念がないことに呆れつつも、不思議と悪い気はしなかった。彼が運んでくる適当さと明るさが、張り詰めていた心の糸を、静かに緩めてくれるのを感じていたからだ。


音もなく、誰が漕ぐでもなく、ゴンドラが水面を滑り始めた。この世界ではそういうものらしい。

船は緩やかな流れに乗り、古い建物の間を縫うように進んでいく。水面を見れば、反射した光が万華鏡のようにキラキラと輝いている。景色に夢中になっているミュアを横目に、鴻上が不意に問いかけた。


「……なぁ。二つの記憶を思い出してみてどうだ。何か、変わったか?」「どうだ、と言われても難しいが……」

クラウディオは一度言葉を切り、自分の胸に手を当てた。


「さっきまでは、何も持っていなかった。空っぽの器のようだったよ。けれど今は、二つの大切な『重み』がある。それだけで、自分がここに立っている実感が持てる気がするんだ」

鴻上は「ふうん」と短く返し、スケッチブックをぱらぱらと捲った。

そこには、先ほど彼が描き上げたばかりの記憶の断片たちが、炭の線となって並んでいる。


「ボタンの記憶のとき、お前、かなりちっこかったな。あんな昔からそうだったっけか」

「記憶は朧気だけど…あの子の方がもっと小さかった。僕より小さな体で、三人の前に立っていたんだ」


クラウディオは、ふいにポケット中におさめていたボタンを取り出す。

このボタンも、あの子ののもので僕のではないと話すと、鴻上を目を細めて「そりゃちいせえわけだ」と返した。

鴻上は目を細め、水面に反射するセピア色の光に視線を投げた。

確かな思い出の色が、ゆっくりと重なっていく。


ゴンドラが橋の下をくぐると、ひんやりとした影が三人を包み、抜けた先で再び琥珀色の夕陽が水面を叩いた。


「……なぁ、鴻上」

クラウディオが、揺れる水面を見つめたまま口を開いた。

鴻上はスケッチブックから顔を上げ、小首をかしげて「どうした?」と問いかける。


「さっきの橋の記憶。……あの子が言った言葉を『もらっていいか』ってお前が言ったとき、断っただろう。あの言い方、なんだか覚えがあるんだ」

「ああ、あの『だめ。わたしがクラウディオに言ってるの』ってやつか? 懐かしいな。あいつ、お前のことになると、急に縄張り意識が強くなるんだよ。普段はあんなにお節介なくせにな」


「……お節介、か」

「そうだよ。迷子の犬を見つけりゃ飼い主が見つかるまで泣きながら歩き回るし、お前が熱を出しゃ効きもしねえ野草を、どこからかむしってきて枕元に並べる。……なぁ、ミュアちゃん。お節介な奴ってのは、見てて飽きねえよな?」


不意に鴻上がミュアへと話を振った。ミュアは船の縁に指をかけ、流れていく景色を眺めていたが、自分の名前を呼ばれて小さく肩を揺らした。体をゆっくりと向き直らせて船へと座ると、指先を髪の毛にくるくると絡めながら呟いた。


「……そう、かな。でもその子はきっと、放っておけなかっただけだと思う」

「何がだ?」

「クラウディオが、あまりにも一人で全部抱え込もうとするから。……見てる方が、痛かったんじゃないかな…」


ミュアの声は、静かだった。けれど、その響きには「想像」ではなく「実感」が混ざっているように聞こえた。クラウディオは、隣に座るミュアの横顔をじっと見つめた。

乳白色の髪が風になびき、その隙間から覗く琥珀色の瞳。

夕陽を浴びた彼女の輪郭は、先ほど記憶の中で見た光の塊と、驚くほど正確に重なり合おうとしていた。


(……似ている)

名前はまだ思い出せない。

けれど、彼女がそこに座っているだけで、この彩域という世界が完成されたものに見える。まるで、最初からそこにいなければならない要素だったかのようにも感じられるようになっていた。


水面に反射する光の粒が、ミュアの乳白色の髪を琥珀色に縁取っている。

その眩しさに目を細めながら、クラウディオはふと、隣に座る彼女に語りかけた。


「……ミュア。さっきの記憶の話を聞いているとき、どうして一度も『それは誰のこと?』って聞かなかったんだい?」


ミュアの肩が、微かに跳ねた。

彼女は指先に力を込め、視線を泳がせる。答えを探すというより、自分の中にある「何か」を必死に隠そうとしているような、迷いのある視線だった。歯切れが悪そうにしながらもミュアは取り繕うように呟いた。


「…だって、あなたの大切な話だもの。途中で関係ないこと聞いたら、邪魔になるかなって」

「そうかな。けれど僕には、知らない話を聞いているにしては、まるで自分も思い出しながら聞いているように見えたんだ」


クラウディオは、じっと彼女の横顔を観察した。彼が職業柄培ってきた「観察眼」が、彼女の微細な変化を逃さない。

「それは……ただ、あなたが早く元の場所に帰れるように、思い出そうとしていただけ。少しでも早くここから出してあげたくて。……それだけなんだから」


ポツリと、言い訳のように呟くミュア。彼女はぷいっと顔を逸らしたが、赤くなった耳の先までは隠せていない。その反応の「間」さえも、記憶の中のあの子と見事に重なり合って、クラウディオの胸の奥を温かく揺らした。


「おーおー、クラウディオくん……ずいぶんと鋭い詰め方をするじゃねえか、さすがは刑事サン」

鴻上がニヤニヤしながら、スケッチブックの端でクラウディオの脇腹を小突いた。


「だがよ、誰にだって知られたくないことの一つや二つくらいあるもんだぜ。ミュアちゃんも大変だな、こんな理屈っぽい男の相手してるとよ」


鴻上がわざとらしく声を上げると、クラウディオは慌てて姿勢を正した。

「すまない……。少し、職業病が出てしまったかもしれない」と申し訳なさそうに呟くと、ミュアも少しだけ表情を緩め、「いいの、大丈夫」と小さく笑った。その柔らかな笑みが、記憶の薄紙を一枚ずつ重ねていくように、クラウディオの中で静かな確信へと変わっていく。


「さて、一休みはここまでだ。着いたぜ」

ゴンドラが緩やかにスピードを落とし、小さな桟橋にコツンと心地よい音を立てて当たった。

鴻上がミュアを抱き上げてゆっくり降ろすと、クラウディオにも手を貸す。中々に、穏やかで満ち足りた休憩だった。三人の距離は、始めのころよりもずっと近くなっていた。


「そうだ、ミュア」

クラウディオは静かな声をかけた。

ふいに呼び止められたミュアが振り返ると、彼はゆっくりと胸のポケットに手を伸ばした。取り出したのは、縁がわずかに欠けたあの小さな白いボタンだった。


この場所に足を踏み入れ、最初に触れた自身の記憶の断片。剥き出しの孤独の中で唯一、彼の手のひらを温めてくれた大切なお守りだった。


「これを――君に。預かっておいてほしいんだ」

差し出されたボタンは、夕陽を吸い込んで琥珀色に透けていた。

「……これ、あなたの大事なものなんじゃないの?」


不思議そうに覗き込むミュアの瞳には、戸惑いと、それ以上に深い困惑が揺れていた。クラウディオは、欠けた縁を親指でそっとなぞり、穏やかな笑みを浮かべた。


「大事なものだからこそ、今は君に持っておいてほしいんだ。……僕の記憶を、君に託しておきたい」

それは、刑事としてのものでもなく。記憶を取り戻そうとしているものでもなく。

ただ一人の人間として、目の前の少女を信じたいという切実な願いだった。

ミュアはしばらくの間、無言でクラウディオを見つめていた。


まるでその言葉の奥にある真意を測るかのように。やがて、彼女はその手でボタンを受け取ると、こくりと深く頷いた。

掌の中で大切に、壊れ物を包むように指を丸めて握りしめる。


これまで長く。誰かと深く関わることに、目に見えない壁を築いて生きてきたクラウディオだった。けれど、ミュアの掌の中でボタンが小さく熱を帯びるのを見て、凍てついていた彼の輪郭が、春の陽だまりのように、少しずつやわらかく解けていくのを感じていた。


桟橋を降りた先には、一本の緩やかな坂道が続いていた。

三人はどちらからともなく歩幅を合わせた。少し前を行く鴻上と、寄り添うように歩くクラウディオとミュア。


白く塗りつぶされていたはずの人生が、一歩踏み出すごとに、優しい色彩を伴って彩域さいいきへと定着していく。


クラウディオは胸のポケットにある手紙の感触を確かめ、次の記憶を見据えた。

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