58.旅立ち
――ここはいったいどこだろう?
辺りをぐるりと見回した。
頭上に広がるのは恐らく空だ。
雲一つない濃いブルーは澄んでいて美しい。じっと見つめていると吸い込まれるような錯覚に陥った。それほど巨大な存在感だった。
しかし、そこに当然あるはずの太陽の姿がない。おかしなことに、この場所は光源がないにも関わらず、明るかった。
地上に広がるのも美しいブルーだった。
というのも、どうも地面は土やコンクリートなどではなく、水のようなのだ。不思議に思って蹴り上げた際、水滴が跳ねて分かった。
辺り一帯に水が張っている――つまり、この地面のブルーは、空を反射しているわけだ。
そんな、まるでウユニ塩湖のような場所に、私はポツリと立っていた。
辺りには何もなかった。
まったく何もない場所だった。
空も地上も果てが見えない。
それはそれは美しく、壮大な景色だった。
――パシャンッ。
景色に圧倒されていると、ふいに背後から水が跳ねる音が聞こえた。
驚いて振り返れば、風もないのに水面がゆらゆら揺れている。
「……」
ゴクリと唾を飲んだ。
こういう台詞は何か悪いことが起こる定番なので言いたくない。言いたくないが、きっと言わない限り先に進まないのだろう。
その証拠に、水面は揺れたままだった。まるで私の問いかけを待っているかのようだった。
「……だ…誰かいるの……?」
恐る恐る声を出せば、思った以上にかすれて聞き取りづらい台詞となった。
もう一度言うべきかと悩んでいると、突然、水面が淡く光り始めた。
辺り一帯ではなく、目の前の一部分だけだ。その大きさおよそ三メートル四方。何が起きるのやらと固唾を呑んで見守っていると、光は呆気なく消えてしまった。
もちろんそれで終わりではない。
今度は、先ほど光った場所にポツンと一つ、点のような光が現れた。先ほどの光と比べると随分と小さな光だった。
光は軌跡を残して動き始め、次第にそれが文字を表していることに気がついた。
水面に浮かぶ光文字だった。
光は、一つ文字を完成させるごとに新たな光が生まれた。
それを何度も繰り返し、やがて二つの文章が生まれた。
『本当にありがとう
貴女のおかげで国は救われました』
日本語だ。
それで悟った。
この言葉は、彼女――本物のギルダによるものだということを。
現状に混乱していたからすっかり頭から抜け落ちていた。そういえば、確かに先ほどまで私は、泉で儀式を行っていたはずだ。
水に浸かった後、すぐに意識が遠退いてしまったからどうなったかは分からない。けれど、彼女の言葉から察するに、あの後レニーは無事に儀式を済ませたのだろう。
ふぅ、と自然と溜息がもれた。
安心したというのもあるし、あまりにも呆気なさすぎて拍子抜けしたというのもある。
正直、やり遂げたという実感はない。
実際に目で成功を確認できていないからだろうか。エンディングをナレーションベースで済まされたような不完全燃焼感が残る。
それに、やはりどうしても、やり遂げたことよりも、終わってしまったことに対して残念に思う気持ちの方が大きいのだ。
未練が、ある。
「……さびしい……」
胸に燻る複雑なモヤモヤに目を伏せた。
視界に入ってくる真っ青の水は、空と同じくとても澄んでいる。姿の見えない明かりを反射して、きらきらと輝いていた。
私の不細工な顔も映って見えた。私はまだ、ギルダの姿だった。
それが嫌で、今度は空を見上げた。
空は広い。最初に見上げた時と同じように、その存在感に魅了された。
ぼんやり眺めていると、自分の悩みが有耶無耶になってくる。その力強い青が優しく包み込んでくるようだった。
そのせいか、段々と心が落ち着いてきた。冷静になったというか、現実を見れるようになったというか。
心が整理された、そんな感じだ。不思議と清涼感があった。
別れを悲しむことより、「まぁ、進むしかないか」という前向きな思考が強くなってくる。
確かにそれは事実だろう。終わったことを今更振り返ったところでどうしようもない。
久しぶりに味わうこの解放感も、背中を後押ししているように感じた。
私は、目一杯手を広げて深呼吸した。
「……ふぅ」
黒いモヤモヤに支配されていた心は、次第に洗い流されていった。ここの水のように、凪ぐこともない、穏やかな気持ちになっていった。
よくよく考えれば、彼らに未来を与えておいて、自分はその未来を悲観したままで塞ぎ込むなどおかしな話だろう。
彼らは彼らの人生を行く。私も私の人生を行く。そう決意したはずなのに、どうしてもふとした瞬間に揺らいでしまう。その己の心の弱さに、苦笑いするしかなかった。
――でも、今度こそ本当にもう大丈夫だ。
「……お疲れさまでした、私!」
この言葉をわざと発することで、すっぱりと心を整理をしようと思った。
言霊とはよく言ったもので、意図した通り、とてもスッキリとした気持ちでいっぱいになった。
すると――。
――パシャンッ。
「!」
再び水が跳ねる音がした。
視線を向ければ、先ほど光文字が現れていた場所に、同じように文章が現れ始めた。
『これで貴女の為すべきことは終わりです』
最後の『す』が現れるまで、じっとその様子を観察していた。
どんなことを言われるのだろうとヒヤヒヤしていたが、当たり障りのない内容で良かった。ほっと胸を撫で下ろす。
ただ、このタイミングで現れたことを考えると、『為すべきこと』には私の決意も含まれていそうだ。彼女の面倒見の良さに笑ってしまった。
さて、終わりなのはいいが、これから私はどうしたらいいのだろう。
そんな疑問が浮かぶのと同時に、視界左手に何かがちらついた。
「?」
不思議に思って目を向ければ、なんと、水のなかから何かが出てきたではないか。
波紋が広がって足にぶつかった。
恐怖心から、体がぶるりと震える。
しかし、そこに現れたのは、怪物でも何でもない、とても見覚えのあるものだった。
「……鏡?」
そう――。
それは、私の部屋で何度も使った、聖域や執務室と行き来できる、例の全身鏡だった。
『これを潜れば元の世界に帰れる』
「…か、えれる……」
無意識に足が動いていた。
足元からパシャという水音が響き、そこで初めて、私は一歩を踏み出していたことに気がついた。あまりに驚いて、じっと足を見つめた。
見つめていると、また波紋がやってきて足にぶつかった。
顔を上げれば、今度は視界右手に、同じように例の鏡が出現している。
二つめの鏡だ。
『これは私からのお礼
右の鏡を潜れば、彼らのいた世界で新たな生を受ける
残念ながら、記憶は持っていけないし、彼らに会うことは叶わないけれど』
「新たな……生?」
『好きな方を選んで
元の自分として残りの人生を楽しむか、それとも新たな人生を始めるか』
『本当にありがとう
貴女の未来が、幸せであふれますように』
光は、その言葉を最後に消えた。
私の目の前には、二つの鏡が鎮座している。これは幻でも何でもない。現実だった。
急に足元からの冷気を強く感じた。
「…新たな人生……」
体が震えた。
これこそまさに、異世界転生と呼べるものだろう。
彼らがいた世界ということは、魔法のあるファンタジー世界ということだ。彼らに会えないことや、記憶を持っていけないというネックな点もあるが、夢のある提案だった。
ラプタン王国は閉鎖的だったため他国のことは分からない。ただ、再び魔法を使えるかもしれないと思うと心惹かれるものがあった。
彼女のこの提案は、私への報奨なのだろう。
まさかそんな新たな選択肢が与えられるとは思ってなかったので、動揺した。てっきり私は、また元の場所に戻って、再スタートを切るのかと思っていた。そう決意していた。
けれど、突然こうやって魅力あるものを提示されると、飛びつきたくなる。元の人生に疲れていたこともあって、尚更だった。
新たな人生とは、いったいどういうものだろうか。
頭に、よくある異世界転生のテンプレが思い浮かんだ。
お金持ちになれるのか。乙女ゲームのような展開なのか。はたまた、田舎でゆっくりのんびり過ごせるのか。
私は、幸せになれるのか。
その選択は博打だ。
だが、吉とでるかもしれないと思うととても惹かれた。
しかし、その選択をするということは、元の私は魂をなくすこととなり、今度こそ本当に死んでしまうだろう。だからこその、異世界転生だ。
現状がどうなっているのかは分からない。少なくとも今は、心臓は動いているはずだ。それが完全に止まってしまうことになる。
果たして、自殺のようなことをしてまで、新たな人生を手に入れたいのか。
すべてを捨てる価値が、本当にそこにあるのだろうか。
「……」
私は、悩んだ。
悩んで、悩んで、悩んで。
――そうして、決めた。
決断した未来が待つ鏡の前まで歩いていくと、足を止めた。
鏡からはどこか神秘的な雰囲気を感じた。
たまにキラリと輝いて見えるのは気のせいではないだろう。水面と異なり、これは鏡自身からの輝きのようだった。目の前の私を誘うように、キラキラと光を放っている。
もう一方の鏡には一瞥もくれなかった。
見てしまえば、決心が揺らぐと思ったからだ。
私は目を閉じると、波打つ心臓を落ち着かせるように大きく息を吸った。
「お世話になりました」
そうして、大きな一歩を踏み出した。
鏡を潜ると、あまりの眩しさに目を開けていられなくなった。
ふわりと当たる暖かい風を感じた。風は頬をくすぐるように駆け抜けていく。
どうやら歓迎されているようだ。
とてもわくわくした。
なんだかやる気がみなぎってきた。
私は、これまでの私とは、違う。
この経験を通して、確かに自信を持てた。
ここに来る前は、自分の性分である“真面目”や“いいこ”というものに疑問を持ち、悲観していた。諦めていた。
けれども今は、そんな自分を誇らしく思っている。
私の選択は間違っていなかったからだ。
その選択があったからこそ、彼らを、この国を、救うことができたのだ。
私は、何一つ間違っていなかったのだ。
ここでの経験は、彼らだけでなく、私のことも救ってくれた。
だから素直に、これからの未来に期待することができた。
レニー、
ジュード、
アーチー、
エヴァン、
そして、――ギルダ。
みんな、本当にありがとう。
私、これから頑張るね。




