57.越えられない壁
私は歩きながら、ちらりとレニーの手を確認した。繋いでいない方の手だ。
その手には勿忘草の花が握られている。
それを見ると、胸がぎゅっと締めつけられるように感じた。自然と体が彼に寄り添った。
――最後に、少しでもそばにいたい。
それは、心からの願いだった。
*
道中、二人は無言のままだった。足音と水流の音だけが辺りに響いていた。
一定の間隔で鳴る足音が、まるでカウントダウンの役割をしているようで嫌悪感を覚えた。手が繋がれていなければ、彼との足並みをずらしたいくらいだった。
目的地までの距離はそう遠くない。程なくして、東屋までたどり着いた。
泉は以前訪れた時と目立った変化はなく、いつも通りの落ち着いた雰囲気だった。
異様な気配がするのは向こうの部屋だけのようだった。この場所は異常なほどに空気が澄んでいるので、余計に差異を感じた。
――穏やかに眠れってことかしら。
私は思わず皮肉る。
しかし、それが有難いことだということは分かっている。それでも、今の心境では皮肉らずにはいられなかった。
ここは何度訪れても美しかった。暗がりに浮かぶ無数の球状のライトは、明るすぎず、見る者の心を落ち着かせる。ぽっかりと空いた心の隙間を埋めるような、そんな印象があった。
また、その作用は流れる水にもあった。かすかな水音は精神に優しく囁きかけるようで、ぼんやりと聴いていると、ここの清廉な空気と相まって心が洗われるようだった。
最後にもう一つ。部屋中に咲き誇る薔薇の香りにも、高いリラックス効果があるのだ。
これまでの国王とギルダたちは、みなここでリフレッシュした。
前述したように、現代的に表現すれば、α波や鎮静効果が関係している。この部屋の場合、もちろんその要素もあるが、その効果がより感じられるように軽く魔法がかかっていた。
憩いの場。
安らぎの場。
この泉はそんな特別な場所なのだ。
儀式のためだけでなく、国のために戦う彼らを労るための場所でもあった。
例にもれず、私も緊張と悲しみ、その他諸々の複雑な思いから心が荒れていたが、少しずつ凪いでいった。
それは、彼にも言えることだった。
おかげで私たちは、気持ちの整理がつき、覚悟を決めることができた。
受け入れる準備ができたのだった。
――これが最後の会話だ。
そう意気込んで拳に力を入れた。
私たちはほぼ同時に向かい合うと、相手の目をしっかりと見つめた。これから話すことを、百パーセント相違なく伝えたかったからだ。
この時、互いに相手の顔が少し強ばっていることに気がついた。そして、相手が何を考えているのかを察して吹き出した。
いい具合に緊張が緩む。私たちは肩を揺らしながら仲良く笑った。
先に口を開いたのは私だった。
「レニー、ありがとう」
たくさんの思い出が走馬灯のように駆け巡り、胸がいっぱいになった。
自然と目を細めていた。
「貴方と過ごした時間は短かったけれど、これまでの人生で一番濃厚な時間だった。楽しかった。幸せだった。……何ていうか…」
レニーはこくりと頷いた。
「言葉で言い表せない想いがいっぱいなの」
私はそう言って苦笑いした。詳細を話そうとして、視線が斜め上に向く。
「あの時――貴方が、私たちは唯一無二の存在だと定義付けた時から、私のなかでそれが驚くほどすんなりと定着した。……半身のようだとまで思った」
レニーが瞠目する。
私は少し早口になった。
「そ、そういう出会いができたことは本当に嬉しく思う。もしかしたら一生こんなことはないかもしれない。本当に幸せなことね」
そう言って調子良く拍手をした。
「それに、今回の出来事を通して私も自分の選択に自信を持てた。国のためだけでなく、私のためにもなったの。だから、関係ない私を巻き込んだとか、そういう風に気負わないでほしい。私も得られるものがあったんだから」
そして私は、一つ深呼吸した。
「本当にありがとう。大好きよ、レナード」
固まるレニーを無視して、彼の肩に手を置き背伸びをした。
一瞬遅れてその意味を悟った彼が軽く屈む。
そのまま、額にキスを送った。
室内であるにも関わらず、風がふわりと駆け抜けて大量の花びらが舞った。暖かい春風のようだった。薔薇の濃い甘い香りが、より一層辺りに充満した。
あまりのタイミングの良さに、まるでこの部屋が意思を持っているかのようだった。もしくは彼が犯人だろうか。そうでなければ、いったいどうして室内に風が吹くのか。
けれども、私はその雰囲気に飲み込まれてしまった。そんな単純な疑問も思い浮かばないほど、目の前の彼に集中していた。
二人を包み込む甘ったるい雰囲気に、知らず知らずのうちにほぅと恍惚の溜め息をもらしていた。
そして、心の赴くまま、彼の額に自身の額をくっつけた。
目を閉じる。
溢れ出る感情を持て余していた。この額を通して、少しでも彼に届けばいいと思った。
願ってしまった。
最後の一線は越えられない。
私たちにとって、これが最大限の距離だった。
しばらくの間、お互いそのままの状態で余韻に浸っていた。
しかし、次第に風が止んでいくと、私は少しずつ冷静さを取り戻していった。
目をぱちりと開く。
そして自身のやったことに絶望した。
――雰囲気に飲み込まれてしまった!
急に距離を取るのもあからさまで、プライドが許さなかった。
見栄を張って、意識してませんとばかりにゆっくりと離れていった。
その際、ふと視線を落としてみた。
出来心だった。
けれども、それは間違いだったのだろう。
じっとこちらを見つめる翡翠と至近距離で合ってしまい、思わず狼狽えた。
熱っぽく見えるのは気のせいではない。それを見て、つられるように頬が赤くなった。
誤算だった。私にとって、当初は親愛を込めて送っただけの言葉とキスだった。
しかし、途中雰囲気に飲み込まれてしまい、それが別の意味を持ってしまった。
欲が出てしまった。
奥底にしまい込んだはずの感情が顔を出し、あまつさえ彼にバレてしまったのだ。
かぁっと余計頬が赤く染まった。
飛び退くように距離をとって、手で煽って落ち着こうとした。
幸いなことに、その行動はこの部屋の機能によりすぐに効果を発する。私は頬の熱がみるみる引いていくことにほっと安堵した。
未だに屈んだままだったレニーは、私のその行動に相好を崩していた。ずっと慌てふためく姿を観察していたのだった。
そして私が平静を取り戻したのを確認すると、体勢を戻しながら嬉しそうに応えた。
「私も同じ気持ちだ。大好きだよ、ギルダ」
「……うん」
にこにこと満足そうに笑うレニーを見て、胸がツキリと痛んだ。
彼がそれ以上踏み込んでこないからだった。
それは私が望んだことで、彼にお願いしたことだった。それに、その権利がないことも分かっている。
それなのに、自分はなんてワガママなんだろう。そう、心の中で嘆息した。
お互いに気持ちが分かっている。
その瞳から熱が伝わってくる。
越えられない壁を前に、私が伝えられる最大級の表現は『大好き』までだった。それ以上の表現は、ルール違反だった。
最後の最後に、彼への想いを認識させられてしまい、自嘲するしかなかった。
それでも、口を閉ざす以外の選択肢はなかった。拒絶したのは私だ。今さら、何の未来も望めない関係にいったい何を期待したというのだろうか。
馬鹿馬鹿しい――。
私は軽く鼻で笑うと、再び背伸びをしてレニーの頭を撫でくり回した。
なんてことはない。
これでいつも通りの関係に戻れる。
何か言いたげな彼の視線を無視して、私は出来る限りにこりと笑った。
「……元気でね、レニー」
「ギルダも」
彼は撫でやすいように頭を下げた。
その頭は、強請るように押しつけられる。
「みんなと仲良くね」
「あぁ」
私は思う存分撫で回した。
そして十分に味わった後、どちらからともなく視線を交わした。
「……」
「……」
私たちはゆっくりと頷いた。
*
片足を泉に入れてみた。
てっきり冷たいのかと思ってそっと入れたのだが、温泉プールのような生暖かさがあり、不快感はなかった。
波紋が広がり、花びらが揺れる。
一つ深呼吸をした。
冷たくないなら怖がらなくて大丈夫だろう。
そう思った私は、それからは風呂に入るように躊躇なく体全体を沈めた。
横になると、不思議と眠気が襲ってきた。強烈な眠気で、すぐに思考が朦朧としてくる。
――!!
まさかこんなにも早く終わりが迫るとは思っていなかったので、必死に瞼に力を入れた。
けれども、私の抵抗もむなしく、瞼は少しずつ落ちていく。
ぼんやりとした視界の先に、あの時と同じく、美しく輝く灰色が見えた。
残念なことに、彼の表情までは見えない。
――待って。
急に怖くなった。
もう本当に、彼に会えないのか。
声を出そうとした。しかし、やはり意識は落ちる寸前で、力を入れたと思ったが口が開いたかどうかは定かではなかった。
水が体を包み込んでいく。
段々と一体化していくような、そんな感覚があった。もう飲み込まれる寸前だった。
――届かないかもしれない。
それでも、最後の力を振り絞って彼の名前を呼んだ。
すると、ぼんやりと見えるその先で、レニーの口が何か形作るのが確認できた。
不思議と、その音だけははっきりと聞こえた。脳に直接、響くかのようだった。
「――ギルダ、愛してる」
ポチャン――。
水滴が跳ねた。
私が知ることはなかったが、それはレニーの目から雫が落ちた音だった。
そうして、私の意識は深い底に落ちた。




