56.勿忘草
この扉を開けるのもこれで最後か。
そうしみじみしながら部屋に入った。
軽く見渡すも、どうやらレニーはまだ来ていないようだった。
血を用意するだけならまだしも、国王としての初期対応に色々追われているのかもしれない。執務室に人が押し寄せて来ていそうだが、大丈夫だろうか。あまりにも遅いようであれば何か方法を考えよう。
部屋の中央に立つと、胸いっぱいに清々しい空気を吸い込んだ。
魔力が体中を巡り、途端力が湧いてくる。
ただの器でしかない体には、とても効果のある方法だった。決して魔力が枯渇しているわけではないが、三時に甘いお菓子を頂くような、そんな感覚だ。儀式のために、少しずつ体の調子を整えておく。
着替えよう。
軽く指を鳴らすと、あの日、泉で眠るギルダが着ていたものと同じ服を身に纏った。
白のワンピースだ。
どうも、これが儀式用の衣装らしい。
軽く回って不備がないか確めていると、手足に浮かぶ黒い痣に目が行った。ぶつけた記憶はないが、数日前からポツポツと鎮座しているのである。魔法が効かないので自然治癒を目指していたが、結局、最後まで治らなかった。
さて、これで私の準備はおしまいである。後は泉に入って魔力を放出するだけだ。
それにより、結界が強化され、≪災厄≫――火砕流から国が守られる。そういう筋書きだった。
何と簡単なことだろう。こんなに簡単なのに、どうしてここまで拗れてしまったのか。
真実はいたってシンプルなのに、本当に人は複雑にするのが上手すぎる。
だが、これが魔女ギルダの願いなのだ。私はその彼女の願いを叶えるため、ここにいる。彼女の決断に思うことがないと言えば嘘になるが、尊重したかった。
レニーが来るまで暇なので、この部屋を回って見納めとすることにした。
タイムスリップから戻ってきてから、随分とこの部屋に入り浸っていた。この体の感覚か、郷愁に駆られるのだ。
また、良質な魔力が満ちていることもあり、この体にとってここは、とても居心地のいい場所だった。本来、目覚めた魔女が過ごす場所として最適なのがよく分かる。
テーブルには、昨夜まで遊んでいたトランプやオセロなどのゲーム類が放置されていた。毎晩遊ぶので片付けるのが面倒になり、少しずつテーブルや床に山を作っていたのだった。
ワインボトルやグラスもそのままだ。毎晩お酒を飲みながら最上級のイケメンとゲームを楽しむなど、この先一生できない経験だろう。事実、レニー以上のイケメンはテレビでも見たことがなかった。
そうやって考えれば、立場こそ難儀であるものの、私は素晴らしい幸運に見舞われたわけだ。ジュードたち三人もとても眼福だったから、すっかり目が肥えてしまった。向こうに戻った後、慣れるまでに時間がかかりそうだ。
「ふふ」
花瓶に生けられた青い花たちを軽く愛でると、机の方に向かった。
机には、書きかけの書類や、文房具、そして一冊の凝った装丁の黒い本が乱雑に広がっている。書類は恐らく、政務に関するものだろう。するとこの本は何だろうか。
いけないとは思ったが、好奇心に駆られそっと開いてみた。
そこには、レニーの字でびっちりとページが埋められている。
どうやら本ではなく、日記のようだった。
後ろに立つ本棚を見上げた。
恐らく、これまでの国王同様、ここに並べるために用意しているのだろう。
ということはつまり、私と彼のやり取りが後世に残されていくわけで――。
「……」
正直、それはとても恥ずかしい。
彼が何と書いているのかが気になったが、さすがにそれはご法度だ。これ以上邪な気持ちが生まれないよう、瞬時に本を閉じた。
心臓がバクバク鳴っている。
万が一悪口が書かれていたら立ち直れない。かといって、それとは真逆のことが書かれていたらいたで、この後どんな顔をして会えばいいのか分からなかった。
こういう場合、自滅するのがほとんどだ。知らないことが幸せなこともある。
繰り返し深呼吸することで、うるさい心臓を何とか押さえつけた。
そこでふと悪戯を思いつく。
無地の紙を取り出し、名刺ほどのサイズにカットするとさらりと一言書き上げた。
そして、日記を元の位置に戻すと、その下に用意した紙を隠すように置いた。
驚くだろうなぁ。
これを見つけた時のレニーを想像してニヤニヤしていると、足音が聞こえてきた。
バタバタと騒々しいそれは、扉の前でも止まることはなかった。その勢いのまま、激しい音を立てながら扉が開かれた。
入ってきたのは、レニーだった。
きょとんとしてしまう。
実は、まさか彼がそんなアーチーのようなことをするとは思わなかったので、すわ敵襲か?と身構えていたのだった。
もちろん、この場所に他者の来訪はあり得ない。だが、それと同じくらい、彼のバタバタ走りはあり得ないことだった。
レニーは肩で呼吸をしながらぐるりと見回すと、目を丸くする私を見つけた。
「ギルダッ!!」
その声に、再びびっくりしてしまう。
ほとんど叫び声に近かったからだ。
彼はホッとしながらもくしゃりと顔を歪ませ、一目散に駆けてきた。そして、私が何か言葉を発する前にきつく抱きすくめる。
汗の匂いがした。いったいどれほど走ってきたのだろう。触れ合っていることから、直に荒い呼吸が伝わってきた。
この状態なら、話すのも儘ならないだろう。
私は、彼が落ち着くまで待つことにした。
――ぎゅう。
そして、待つことにして十分が経過した。
腕の力は強まるばかりだった。彼は一向に私を離そうとはせず、話そうともしなかった。
しかも、呼吸が落ち着けば肩の揺れがなくなり、微動だにしなくなった。
段々と心配になってくる。結局、私から声をかけた。
「レニー、生きてる?」
「……」
葛藤を感じた。
ややあって、彼はその重い口を開く。
「…………いきてない」
「ハグはいいけど、そろそろ苦しいかな」
「………私だって、くるしい」
「……」
言葉に詰まってしまった。
どうしようかと考えていると、レニーがもぞもぞ動き始め、体が解放された。
彼は口を引き締め、無言で見下ろしている。視線が合い、そのまま見つめあった。半ばにらめっこのようだった。
「……準備は?」
私が問うと、彼は自身の胸元を軽く叩いた。
「抜かりない」
無事に少女の血は手に入れたようだった。
ということは、本当に残すところ、泉に入って魔力を放出するだけとなった。
それなら、最後に少しくらい、レニーとまったりとした時間を設けるのもいいだろう。聖域の特殊性により、まだ猶予は残されているはずだ。
私は、気の抜けた表情をしている彼の手を引っ張り、壁際まで移動した。そして壁に背を預け、床に腰を下ろす。
手は繋いだままだった。
二人並んで、ぼんやりとする。
私も気が抜けてしまった。
無事に血を確保でき、残すは儀式だけだということに安心してしまったようだ。
最後の最後に気を抜くなんて不吉だと思うが、腰を落ち着けたことがいけなかった。急に疲労感が襲ってきて、それが緊張に勝った。
もうほんの目の前に、私の役割の終わりが見えていることも関係しているのだろう。
先ほど三人と別れた時は、まだレニーとの挨拶が残っていて、彼が滞りなくここにやって来れるか不安もあった。しかし、それらがすべて片付いた今、今度こそ、本当の本当に最後なんだと悟ったのである。
あぁ、これでさよならなんだ、と。
長かったような。
短かったような。
不思議な感覚だった。
十中八九、私はこの後元の世界に帰る。それについては確かだと、なぜか理解できる。ギルダの魔力の力なのかもしれない。
今の気持ちを言い表せる的確な言葉が見つからなかった。
ただ複雑な気分だった。
喜びと悲しみが複雑に入り混じっている。帰りたいのか帰りたくないのかよく分からない。
これもそれも、この世界に大切なものが出来すぎてしまったことが原因だった。
これまでのギルダ役の人たちも、私と同じように感傷に浸ったのだろうか。
けれども、彼女たちのなかで、国王以外の人物とまで交流を持った人はいない。そういう意味では、私は特に苦しく感じていそうだ。
ただ、逆に考えれば、それは私がこれまでのギルダ役のなかで、一番充実した時間を送ることができたということでもある。
短い期間のうえ、限られた場所にしか行けなかった。それでも、正直言って、元の人生よりも毎日が楽しかった。
私にとっても、居場所だと思えた。
パッと明かりが灯るように思いついた。
――そうか、私は一番恵まれていたのか。
自然と口元に笑みが浮かんだ。
たくさんの思い出を、向こうに戻った際も覚えていられるのだろうか。
せっかく自分の人生に自信を持てたのだから、ここで得られたものすべてを持って行きたかった。胸を張って、自分を誇りに生きていきたかった。
「……何を考えているんだ?」
レニーはポツリと呟いた。
「ん?たくさん大切なものができたなぁって」
思わずふふと笑みがこぼれる。
「みんなのおかげで本当に楽しかったよ。忘れたくない思い出がいっぱいできた。それで、向こうに戻ってもこの記憶は残るのかなって」
三角座りに変え膝に頭を乗せる。そのまま彼の方を向けば、なぜか口を尖らせていた。
「何でむすっとしてるの?」
「……ここは私のことを考えててほしかった」
あまりにもド直球な言い分に吹き出した。
「あはは!ごめんごめん」
未だむすっとしている彼の肩に頭を預けた。するとすぐにその上からずっしりとした重みがのしかかる。彼の頭だ。
握った手に力が込められた。
「すべての日記を確認したが、戻った後のことは書かれていなかった。どうなるかは分からない。貴女の方が詳しいんじゃないか?」
「さぁ……私もよく分からない」
「そうか……」
少し気落ちした声音だった。
のしかかるそれが、穴あけドリルのようにぐりぐりと主張し始めた。
「忘れてほしくない」
「……そうね、私も忘れたくない」
「……」
徐に彼は立ち上がった。
テーブルに向かうと、飾られていた青い花の束を掴み、指を鳴らした。
すると、様々な種類の花たちは、一瞬で同じ形の青い花へと変わった。
あれは見たことがある。
勿忘草だ。
「……」
――何となく、色々と、悟った。
ありきたりだけど、そのありきたりが一番ぐっときたりする。
レニーは花束を抱えながら戻ってくると、手を差し出した。
それに掴まり立ち上がると、彼と近い距離で向かい合うことになり肩が跳ねる。
そのうえ、顔に手まで伸びてきた。反射的に目を瞑れば、その手は髪に触れただけだった。
「……あ」
いたたまれない気分になる。
ふと、髪に重みが加わったことに気がついた。確認すると、どうもその勿忘草が飾られているようだ。
「これも青い花だったわね」
羞恥心から逃げるように、ひょいと肩を竦めて惚けたことを言った。そして、さりげなさを装って一歩後退した。
レニーは片眉を上げ、軽く鼻で笑う。
「毎回ギルダを送る時にはこの花を用意していたらしい。勿忘草と言うんだろう?花言葉は、私を忘れないでとかなんとか」
「そうね。……これまでの国王とギルダも、そうやって別れを惜しんだのかしら」
しんみりして言えば、レニーはまた髪に触れ、くるくると遊び始めた。
その時、突然異様な気配を感じた。
ハッとして見渡せば、どことなく聖域の雰囲気がおかしい。
胸がひどくざわついた。
レニーを見上げれば、彼もこの異様な雰囲気を感じ取ったらしかった。
眉をひそめている。
「……」
「……」
ぱちりと視線が交ざり合った。
自然と分かった。
これが、タイムリミットだと。
「……行こうか」
レニーは顔を伏せ、長い瞬きをした後、手を差し出した。
その顔には薄く笑みが浮かんでいる。
「えぇ」
手を重ねると、指の一本一本が絡むようにがっちりと繋がれた。
痛いくらいだった。




