50.アーチーと二人で
「お待たせしました」
アーチーがにこにこしながら、トレーにカップを二つ乗せてやって来た。
実は彼がキッチンへ往復するのは、この数分の間で二度目だ。
一度目は、機嫌の良い彼がついスキップをしたものだから、カップの中身が半分くらいダメになった。なので二度目の今回は、ほとんど摺り足で歩いてきたようだ。
無事に私がいるソファーに辿り着いた彼は、トレーをテーブルに置くと、期待のこもった目でじっと見つめてきた。
「……ありがとう」
「いえ!」
アーチーは花が綻ぶように笑った。
なぜだか昔テレビで見た、冷蔵庫から缶ビールを持ってくる犬の動画を思い出した。
犬は――おっと間違えた。
アーチーは私の隣に座ると、両手にカップを持って鼻歌まじりに飲み始めた。
実に平和である。
タイムスリップから戻ってきた私の生活スタイルは、以前とほとんど変化がなかった。
体調こそ崩したものの、快復してからはいつものように、薬や魔道具の製作、そして師弟にアドバイスを行う日々を送っている。
ジュードの質問は意図が掴めないものが多かったが、かなり真剣な様子だ。何か新しい事業でも始めるのかもしれない。
一つだけ、以前と異なることがあった。
それは、レニーの存在だ。
彼が昼間訪れることは滅多にないが、代わりに、毎晩二人で聖域で過ごすようになった。
そのため、日中は少しだけ睡眠不足でぼうっとしてしまう。いくら聖域の時間の流れは遅くとも、体内時計が狂いかけているのだ。そのことに、アーチーは頬をこれでもかと膨らませていた。
そんな風に、驚くほど穏やかな毎日を過ごしている私だが、今日は珍しくアーチーと二人だけだった。
ジュードはレニーに呼び出され、エヴァンは家の用事で不在だった。
だからなのだろう。アーチーがこんなにも上機嫌なのは。
自分で言うのもなんだが、彼は私にとても懐いている。久しぶりに二人だけで過ごせるのが嬉しくて仕方ないといった様子に、私も自然と笑みがこぼれていた。
アーチーといえば、先日、体調が快復した翌日に、ものすごい勢いで謝罪してきた。
しかも謝罪は大号泣とともに行われたため、ほとんどその内容が聞き取れなかった。
思わず思考が飛んでしまい、視界の端の方で、ジュードが顔を引きつらせていた姿の方が、妙に記憶に残っているくらいだ。
彼はとにかく「ごめんなさい」という言葉を繰り返していた。
そして、「疑っている気持ちもありました」とも言っていた。
私はその言葉に頭が真っ白になった。何と声をかけたらいいかが分からなくなった。
――分かっている。彼は知らなかった。私だって知らなかったのだから、これは仕方がないことだ。
それでも、ちょっと怯んでしまって無意識に顔を背けたようだ。
それが彼の琴線に触れたのか、号泣は更に勢いを増した。そしてほとんど突進するように正面から飛びついてきた。
謁見の時と同じだ。共倒れしそうになったところをエヴァンが支えてくれなければ、強かに腰を打ちつけていただろう。展開についていけなかった私は、ただ目を白黒させながら、視界に映るダークブロンドを眺めていた。
彼は私に力一杯しがみつきながら、たくさん泣き喚いていた。
まるで、これから私が彼を見限るとでも思っているかのようだった。
「ごめんなさい!ごめんなさい!それでも、僕はギルダ様が好きです!たくさんお話ししたいし、魔法も教えてもらいたいし、ギルダ様が住んでいたところの話も聞きたいし、とにかくギルダ様が好きで、ただ年寄り扱いしたからもう許してもらえないかもしれないけどっ……!」
うわああん!すいませんでした!
ギルダ様はまだお若くて、美しくて、素敵なお姉さまです!ババアなんて思っていてごめんなさいうわあああん!!!
そのエンドレスだった。
――いや、私が気にしたのはそこではない。
そう思ったのだが、彼は突っ込む余地をくれず、一人で暴走していた。
とにかく謝罪しなくては、と思っているのだろう。「ごめんなさい」と「お姉さま」を何度も繰り返していた。
震えながらも離さないようにとしっかり握る両手が、とても痛々しかった。
言ってる内容は検討違いだが。
そんなこの世の終わりのような様子で取り乱す彼を見ていると、何だか馬鹿らしくなってきた。あんまりにも変なところで必死に謝罪するものだから、毒気を抜かれてしまったのだ。
ただただ笑いが込み上げてきた。
その後、ついに堪えられなくなった私が肩を震わせ笑っていると、やっとアーチーは泣き止み、疑問符を浮かべたのだった。
「ふ……ふふふ……」
「どうされました?」
ーーと、そんな数日前のことを思い出していたら、ついまた面白くなってしまった。アーチーがきょとんとして首を傾げている。
それがまたあの時の姿と重なってしまい、余計笑いがもれてしまった。
「ふ……ふふ、ごめんごめん。何でもないわ。アーチーはよく泣くなぁと思い出して」
「そうですかねぇ?」
「そうよ。アーチーとレニーは泣き虫ね」
無性に頭を撫でてやりたくなって、ふわふわの癖っ毛に指を通した。
するとアーチーは、レニーの名前にぎくりと肩を揺らす。
「ウッ…陛下……」
「?」
彼は急に辺りをきょろきょろと見回して、鏡のある方向をじっと見つめた。
何かを警戒しているような様子だ。
しばらくそれを繰り返していたが、特段何の変化もないことを確認すると、安堵の息をもらした。
そして、内緒話をするかのように、声を落として話し始めた。
「……僕、陛下が…怖いんです……」
なんだって?
「秘密を教えて頂いたことは感謝しています。それで、これからはギルダ様と心からお話しできると思っていたのに、陛下の視線が……」
「怖い、と」
「そうなんですっ…!ギルダ様に話しかけると、陛下が!陛下が……!」
彼は手を組んで目を潤ませた。びっくりするくらいあざとい。あざといが、可愛い。
「とっても睨んでくるんですっ!」
「そうだっけ?」
「そうなんです!!」
声を荒らげたアーチーは、下ろしていた私の手を掴み、自身の頭に乗せた。そして頭を左右に振り、自ら撫でられようとする。
一応、それにはのってあげた。
「……ううっ…こうやって甘えたいのに、陛下がいると本当に甘えづらいんです……。最初こそ、陛下と師匠が険悪ムードだったのに、最近は二人で仲良く密会もしてるし……。おかげで陛下のターゲットが僕に移ったみたいで、とっても怖いんです……」
「そういえば最近、あの二人仲良いわよねぇ」
「ていうか陛下って僕とキャラ被りしてません!?あの顔で甘えたなんですか!?う~僕の方が絶対可愛いのに~!」
いやいや、気にするのはそこなの?そう思って苦笑いした。
だが、本人はかなりショックを受けているようだったので、頭をたくさん撫でておいた。
それにちょっとだけ機嫌を良くした彼は、相好を崩す。
――かと思ったら、またすぐに頬をぷっくりと膨らませた。
雰囲気が、変わった。
「それに……」
鳶色の瞳が不安そうに揺れる。
「夜だって、最近は陛下と過ごしてばかり……」
視線は、合わなかった。
ふぅと溜め息のような深呼吸のような、息がもれる音がした。
「……残された時間が分からないから、出来るだけ、一緒にいたいのに……」
そう言って彼は、眉尻を下げた。
頬は幼子のように膨らんでいるが、そのワガママは尻すぼみで、引き際を分かっているそれだった。
心臓がきゅうと音を立てた気がした。
「……アーチー」
「……はい」
「――ごめんね。代わりに、昼間はもっとたくさん一緒に過ごしましょ?」
膨らんだ彼の頬を、手のひらで両サイドからプレスした。
頬はプスッと音を立てて萎む。
そのまま彼の返事を待っていれば、私の手に重なるように彼の手がそえられた。
視線が、交わった。
鳶色のそれは、悲しみが混ざっている。真っ直ぐにそのことを訴えられ、動揺した。動揺したので、つい長い瞬きをしてしまった。
「……」
アーチーは少しだけ目を伏せた。
そして再び交わった時には、いつもの輝きが戻っていた。
「……分かりました……。……ねぇギルダ様、そういえば、約束覚えてますか?マニキュア!マニキュア塗ってください!」
「……はいはい」
アーチーのそれは空元気のように思えたが、深く追求することはしなかった。
そうする方が、良いと思った。




