38.side:アーチー(2)
だから、異世界の少女が現れたと知った時、この幸せが壊れるかもしれないと思って怖かった。
僕は久しぶりに泣いた。周りに何を言われても泣かなかったのに、泣いてしまった。
あまりに久しぶりで、上手な泣き方なんて分からず、わんわん泣いた。
翌朝、瞼は腫れ上がり、目は充血していた。誰から見ても泣いたのは明らかで、きっとあの時彼女も気づいていただろう。
彼女を信じたかった。
関係ない、と断言してほしかった。
しかし、彼女はその事実を淡々と受け入れただけだった。悠長な様子さえ見られた。
思わずカッとなった。
ショックを受けているのは僕だけなのか。
この暮らしが終わってもいいのか。
僕たちと会えなくなってもいいのか。
そんな憤りが次々と生まれた。
こんなの、ただの八つ当たりでしかないということは分かっていた。
疑われているのは彼女で、傷つくべきなのも彼女だ。僕の怒りなど理不尽だろう。余計追い詰めるようなことはするべきではない。
それでも、僕にとって、彼女たちとのこの暮らしは大切なものだったから、熱くならざるをえなかった。
もっと真剣に考えてほしかった。
――ただ、正直な話。
異世界の少女の存在により、僕のなかで彼女に対する疑念の種が芽吹いたことは、紛れもない事実だった。
あの時は、そんな自分にも、煮え切らない彼女の態度にも、イライラした。
幸いにして、彼女は依然として記憶がないままで、変化は見られなかった。
僕の知る優しい彼女のままだった。
僕は、人間の本質は変わらないと思っている。今の彼女が本当の彼女だというならば、彼女を選ばなかった過去の王たちは馬鹿だ。伝説なんてどこまで事実かは分からない。もしかすると、彼女がそこまで怒り狂うほどの事情があったのかもしれない。
先入観というのは、麻薬のようなものだ。ずっと尾を引く。よく知りもしないで、決めつけた可能性だってある。
だから僕は、伝聞でしか知らない過去のことよりも、今目の前にいる彼女のことを信じたいと思った。その際、小さな燻りは奥深くに閉じ込めて、無視をすることに決めたのだった。
信じたい。ただその一心だった。
しかし、無情にも陛下との謁見が決まってしまった。
国民に混乱が起きているとはいえ、それは反対だった。因縁の相手とも言える王族と顔を合わせれば、過去の記憶を思い出してしまうかもしれない。そうなった時に、どんな影響があるかと考えれば恐ろしかった。
反対する理由の三割は「彼女が傷つくところを見たくない」だ。軽蔑されたくなくて、僕はいい子ちゃんで接した。
記憶を思い出すということは、好きな男に振り向いてもらえなかった過去を思い出すということである。それも、二度ものそれを。
そして、今回美丈夫である陛下に会うことで、三度目の恋に落ちるかもしれなかった。
既婚者である陛下がその想いに報いることはないだろう。ただただ失恋の痛みを増やすだけになる。
――いや、記憶を思い出さなくとも、陛下と会うということ自体がまずい。単純に惚れて、過去を繰り返す場合もある。皮肉にも、僕の理論を通すのであれば、人間の本質は変わらないのだから。
もしくは先ほど言ったように、何かしかの“怒り狂うほどの事情”があった場合、因縁の相手の血縁者を前にして、復讐心が再燃するということも考えうる。それは、恐ろしいことに、魔女ギルダの再来を意味する。
いずれにしろ、彼女は再び傷つくことになるだろう。
慕っている僕としては、傷つく彼女を見たくなかった。壊れていく彼女を見たくなかった。
そして七割の本音は――彼女に裏切られることが怖かった。
僕が、傷つけられたくなかった。
二度と会えなくなることが、嫌だった。
そんな思いを抱えながら始まった謁見。
始まってしまえば、周りの雰囲気にそんな思いなどあっという間に消えてなくなった。
とにかく何もできない自分を歯痒く思った。
お目付け役に選出されたのは師匠とエヴァン様だ。僕はただの師匠のおまけにしかすぎない。
そんな身分だから、彼女の側にいることもできない。あの場で発言する勇気もない。
自分には何の力もないと痛感した。多少魔法が使えたところで、何の意味もない。大事な局面でただ見ているだけしかできなかった。
自分はなんてちっぽけな存在なんだろう。
結局、僕は違うところで傷ついていた。
師匠のプレゼンには舌を巻いた。
確かに僕も、彼女のあの能力を国に還元できれば、少しくらい恩赦がもらえないだろうかと前向きに頑張っていた。それが、あんなにあっさりとうまくいくとは。
無論、今でこそ、陛下の意向があった出来レースだったということは分かっている。だがあの時は、自分の不甲斐なさに余計落胆する原因となった。
とはいっても終わり良ければすべて良し。
彼女の命が助かり、心底ホッとした。
そして何より、謁見を終えた後も、彼女に何の変化もなかったことに安堵したのだった。
首の皮一枚繋がった命だ。
絶対に彼女を死なせたくなかった。
魔道具の製作やら何やらが彼女のためになるというならば、それをやるしかない。
権力も後ろ楯もなく、政治などの複雑なあれそれも分からない僕には、ほとんど役に立てない。選択肢はそれしかなかった。
そうすることで、彼女の価値を人々に正しく伝える――それが、僕ができる唯一のことだった。
彼女のためにも、――そして僕のためにも、僕は僕ができることを精一杯やろう。
そう思って、以前より一層、僕は魔道具の製作に力を入れるようになったのだった。
しかし、人生そう簡単にはいかない。
僕はまた、自身の非力さを痛感することとなった。
大地の揺れがあった。世間一般では、魔女の怒りだと言われているそれだ。
地震というらしい。凄まじい揺れと唸るような音に、体が硬直した。
あんな恐怖は初めてだった。どうしていいかが分からず、パニックになった。気がつけば彼女に抱きしめられていて、必死にしがみついて堪え忍んだ。
彼女の魔法のおかげもあって大事には至らなかったが、今思い出してもなんとも情けない話である。いくら僕の方が年下でか弱いとはいえ、女性に守ってもらうなど。
彼女のために頑張ろうと意気込んだのに、結局、その彼女に守ってもらう形となってしまった。恥ずかしかった。
ただ、あの時の温もりのことは今後もずっと忘れられないだろう。
そしてそんな優しい彼女は、やはり犯人として疑われていた。
陛下が魔女との関連を否定したが、騎士団団長を筆頭に、相変わらず世間の目は厳しかった。彼女には秘密にしていたが、行動を共にし、擁護した僕たちにもその被害は及んだ。
四面楚歌な状況でも挫けなかったのは、彼女が犯人ではないと知っていたからだった。
地震が起こる前後にわたりずっとそばにいた彼女は、加害者ではなく、僕たちと同じ被害者だ。魔法を使っていないことは明白だった。
信じたいと思ったその通りに、僕は目の前にいる彼女のことを信じた。
彼女の汚名を晴らしたかった。
過去の話は事実かもしれないが、少なくとも今回のこの地震は彼女とは無関係だ。
だから謁見後の時と同じく、傷ついた国民のために薬を用意することで、味方であることをアピールしようと思った。その後はしばらくの間、無我夢中で取り組んでいた。
僕は彼女のことを信じたいと思っていた。
裏切られるのが怖かった。
だからこそ、今回陛下から聞いた話は、結論から言えば、天にも昇る心地だった。
やはり、あの伝説は嘘で、彼女は悪人などではなかったのだ!
僕の目に狂いはなかった!
もちろん話を聞いていた時は混乱し、背負わされたものに恐怖を感じた。自分たちが守られているとは知らず、彼女をずっと虐げてきたことに絶望もした。
そんな色々な感情がやって来たが、結局最後に残ったのは、“安堵”だった。
僕だけ――ではないか。僕たちだけが真実を知っているという、優越感さえ生まれたくらいだ。
なぜか?
彼女が無罪だったからだろうか。
僕の願いが叶ったからだろうか。
それとも、僕が信じたい彼女が無罪で、僕が裏切られることはなくなったからだろうか。
最後のそれだとすると、なんて自分本位なんだと後ろ指を指されるかもしれない。でもそんなことどうだっていい。
彼女に非はない。僕も彼女を信じられる。こんな嬉しいことがあるだろうか。
みんなが幸せだ。
するとどうだろう。
すべての不安要素がなくなったところで、多数のなかの一つにすぎなかった罪悪感が、じわじわとその存在感を示していった。
記憶にない罪を突きつけられても、笑みを浮かべる彼女の姿が思い浮かんだ。
明るい気持ちがどんどん沈んでいった。
彼女を信じるとは言いつつも、そこに一欠片も疑う気持ちがなかったと言えばそれは嘘になる。むしろ、疑う気持ちがあったからこそ、“信じている”ではなく“信じたい”という目標に落ち着いていたのだった。
僕は取り繕うのは苦手だ。きっとその態度は彼女に伝わっていただろう。根底にあったそれは、ずっと彼女を傷つけてきたはずだ。
その時、悪と呼ぶべきなのは、僕の方だったことに気がついた。
そもそも、彼女は魔女ギルダですらなかったのだ。この国とは何の関係もない赤の他人が、たまたま巻き込まれただけにすぎない。
突然知らない場所にやって来て戸惑いしかなかっただろう。それなのに僕たちは……。
そう思うと、余計罪悪感に胸が締めつけられた。
彼女は、そんな状況でも僕たちに協力し、あまつさえ守ってくれた。
一体どんな気持ちだったんだろうか。
僕が泣くのはお門違いだとは分かっているが、感情のコントロールがうまく効かなかった。
謝らなければならない。
とにかく僕は、彼女に謝らないと。
そういえば、彼女が泣いているところは一度も見たことがなかった。どんな理不尽な扱いを受けようと、それを受け止めていた。
もしかすると僕の知らないところでは涙を流していたのかもしれない。
僕は、彼女が何も言わないのは、たとえ記憶がないとしても、どこかで非を認めているからだと思っていた。
浅はかだった。
必死に堪えていたのだろうか。
それならばなんと強い人なのだろう。
それに比べて僕は……あぁ、結局そこに至るのである。
情けないなぁ、と。
僕にもそれくらいの強さがあれば、僕たちの関係は変わっただろうか。
無知とは恐ろしいものだ。
謝り、許しを乞えば、もう一度チャンスをもらえるだろうか。
この関係をまた一からやり直すことはできるだろうか。
そういえば――。
陛下の話によれば、彼女は別世界からやって来ただけから、年齢は魔女ギルダとイコールではないという。
ぞっとした。
女性はやれ年齢に敏感である。姉たちで学習した。それなのに、てっきり老婆だと思っていた彼女に対して、かなりぞんざいな態度をとってきてしまった。
恐らく本人も自身がそうであると認識していたからこそ、そこまで怒らなかったのだろう。――が、事実が異なるとするとこれは厄介である。
どうしよう。
やっぱり僕は許してもらえないかもしれない。




