18.指輪
「あぁ、ほら擦らないで」
散々泣いて瞼が重いのか、手のひらでぐいぐい押し上げる彼についストップをかけてしまった。
あまり擦ると明日が悲惨だ。腫れたらせっかくの綺麗な顔が台無しになってしまう。
新たなハンカチを用意すると、魔法を使って保冷剤代わりにした。
彼に渡すと、怪訝そうに首を傾げられてしまう。「これを使って瞼を冷やして。じゃないと腫れちゃうわよ」そう伝えると、顔を青くして素直に頷いた。
もしかすると彼は、泣くと瞼が腫れるという単純なことを知らなかったのかもしれない。
必死に冷気に堪えながら従う彼は、少しだけ焦った様子だった。泣いたことは誰にもバレたくないのだろう。
彼のストレス発散タイムの終了は、思っていたよりも早くやってきた。
気が済むまでとことん付き合うつもりだったが、途中、少し落ち着いた際にふと我に返ったようだ。その後はひたすら深呼吸を繰り返して持ち直し、冒頭に至る。
その懸命な姿が面白かったのは内緒だ。
涙は、止まっていた。
保冷剤の隙間から恐る恐るこちらを窺うグリーンの瞳と目が合った。
泣いたおかげで目元が赤らんでいるので、ちょっぴり色っぽい。幼子のようにわんわん泣いた羞恥が今更やってきたのか、直視できない様子だ。こっそり確かめようとしたのか、視線が合うと小さく肩を揺らした。
うーん。
「私が理性のある大人で感謝しなさい」
「?確かに想像していたより理性があるな。会話が成立している」
「純粋培養……」
「??」
彼はどういう意味だ?と投げてきたが、面倒だったので手を振って無理矢理終わらせた。
納得がいかないという顔をしていたが、気を逸らすために瞼の話に戻す。
「温めるのと冷やすのを交互にやるとか、あとは揉んであげるといいのよ」
「なるほど」
彼は真顔で了承すると、両手でマッサージを始めた。驚くほど素直だ。ちょっぴり悪戯心が湧いて引っ張ってみてと伝えれば、二つ返事でそれに従うものだから、変顔が現れた。
にやける顔を隠しながらもっとと言えば、彼は痛みに堪えながらも期待に応えてくれた。
びよんと伸びた美形の瞼。おっきな目玉がぽろりと落ちてしまいそうだ。
「ふっ、ふふ……」
「何を笑って…は、騙したのか!?」
彼はぱちんと指を放すと、仄かに頬を染め、声を荒げた。
「じゅ、純粋すぎる……ふ、ふふ」
「む……や、やはり魔女は魔女か!瞼が腫れるというのも嘘なんだろう!?」
「いえいえ、それは本当よ」
「……?」
ぴたりと彼の動きが止まり、困惑したように左右に首が傾げられた。
「……じゃあこれは我慢しなければならないのか……」
そう残念そうにもらす。保冷剤が気に入らないらしい。
落ち込む姿が可愛らしくて思わず吹き出した。彼からじっとりとした視線が飛んでくる。
「我慢しなさい。誰にも何も聞かれたくないんでしょう?」
「……」
予想通りにぐぅと押し黙る彼ににやけが止まらない。そのせいで完全に気分を害したようで、真っ直ぐにこちらを睨んでくる。
負ける気がしなかったのでそれを正面から堂々と受けていると、視線が一瞬下がった。
すると細められていた瞳が徐々に開いていく。まるで何か驚くものでも見つけたかのように。
「貴女も泣いたのか?」
「!」
慌てて頬に触れた。
涙は垂れていない。
「胸元が濡れているようだが確信は持てなくて、かまをかけたのだが……やはりそうか。貴女は僕の話を聞いて泣いたのか」
視力がいい上に鋭い。
別に嘘をつくようなことでもないので、私は正直に肯定した。
「えぇ」
彼は眉間にシワを寄せた。
「……貴女は本当にあの魔女なのか?僕の知っている魔女とは全くの別人のように思える」
「もちろん、あの魔女よ」
正確に言えば前世を思い出した魔女、だ。
――なぜ、私がここまで彼に同調したのか。
人の顔色ばかり窺ってきた私が、人一倍感受性が強いから、ということも理由の一つに挙げられる。
だが、それはひとえに、彼の境遇と前世の私の境遇が似ていたからだった。
例えば、とうに限界が来ているのにそれを正直に伝えられないこととか。
抑えきれなくなった感情を、こうやってたまにこっそり爆発させるとか。
自分だけが我慢して努力し続けなければならない現状に、絶望しているとか。
恐らく、彼は私と同じで、ガス抜きの仕方がとてつもなく下手なんだろう。
真面目で、責任感から何とかしようとして――。でも結果的にそれに首を絞められている。
きっと伯父に「支えてやれよ」と言われた時も、首を縦に振ったに違いない。そうじゃなければ、こんな夜中にキレたりしないはずだ。
「……そうか」
彼はそう小さく呟くと、口元を綻ばせた。
「……泣いてくれたのか……」
私は前世で、悩みを誰かに相談したかった。
適切なアドバイスが欲しいわけじゃない。誰かに話を聞いてもらうだけで良かった。私の気持ちを知ってもらいたかったのだ。
ただ、内容が家族のことであったから、恥ずかしくて誰にも相談できなかった。
それに、今まで築き上げてきた“私”という人物の根底にも関わることなので、周りにどう思われるかも不安だった。
そんな時、“私のことを何も知らない人”に話すことができたら、どれだけいいことかと思っていた。面識のない人で、尚且つそれ以降会うことがない人であれば、気兼ねなく話せる。
カウンセリングも候補にあったが、そこまでの勇気が持てなかった私は、ただただ感情を燻らせていた。
だから今回、私は彼の話を真剣に聞いた。
彼が話したがっていたからというのもあるが、面識のない人にこそ、話せる話もあると思ったからだった。
そしてその選択は正しかったようだ。
ほうっと息を吐く彼が視界に入り、なんだか私まで救われるような気がした。
*
気が抜けたところで、ふと思い出したことがあった。
「指輪……」
「指輪?」
そうだ、指輪だ。
あの時、パニックになっていた私に彼女が伝えたことはたった一言、『指輪』だった。
今思い返しても意味が分からない。生死に狼狽える私をからかったのだろうか。――いや、それはなんだかしっくりこない。仮にも“私”が、そんなことをするはずはないだろう。
とすると、やはり何かしら意味のある単語だと考えるのが自然だろう。
彼、もしくはこの場所と何か関係しているのだろうか。
私の手元に指輪はないのだから、それをこれから探すべきなのだろうか――。
そう悶々と考え込んでいると、彼が声をかけてきた。
「貴女は指輪を探しに来たのか?」
「!」
驚いて勢いよく顔を向けると、彼は少しの間逡巡した後、執務机を回った。
そして引き出しの中を漁り、奥の方にしまってあった何かを取り出した。
「これのことか?」
彼は手のひらを差し出した。
その上には、ヴィンテージ物のおおぶりなシルバーリングがあった。
小さな黄色の石が付いていること以外、装飾の見られない簡素な作りだった。
ただ、その石は光を浴びて美しい輝きを放っており、決して安くはない代物であることは分かった。宝石だろうか。
なぜだか、その指輪に違和感を覚えた。
「……」
「……どうした?」
「あ、いや、なんだかそれ……」
「?」
なんだろう、この変な感じは。
うまく説明ができないが、その指輪が何となく、ただの指輪でないように思える。
嫌な感じではない。むしろ、馴染みが深いものに出会った時の気分に近かった。
もしや、昔のギルダの持ち物なのだろうか?それにしては、私が身に付けるにはサイズが大きいように思える。恐らく男性用だ。
「この指輪は、一族に伝わる家宝らしい」
少年は“家宝”と言いながらも、ぞんざいに指でつまみ上げた。どこか冷ややかな視線すらそれに向けられている。
「後継者は必ず、これを身に付けるように言われている。もちろん、僕も本来であればそうしなければならないのだが……」
彼はそう区切って鼻を鳴らした。
「父上のことを思い出すから嫌なんだ」
その後、彼はその忌ま忌ましい指輪について説明してくれた。
なんでも、家宝であるその指輪は、後継者が肌身離さず身につけるように決まっているんだとか。しかし、それが視界に入ると、以前の所有者であった父親のことを思い出してしまって辛いらしい。
まぁ、それは分かる。
そして、彼は運良く父親の死の間際に居合わせたらしいのだが、その最期の最期、彼に向けられた言葉が、何を隠そう「指輪をすぐに付けろ(意訳)」だったとのこと。
本人としては拍子抜けで、もっと言うことがあるだろうと拗ねて――おっと、失礼。納得がいっていないようだった。
「いっそ父上と一緒に葬ってやろうかとも思ったのだが、さすがに良心が咎めてな」
「……」
なるほど埋めようとしたのか。
「悩んだ末、受け継がなくてはならないものだからと、一旦ここに保管している」
「……保管とか言って、適当に引き出しの中に放り込んでるだけじゃない」
「まぁそうとも言う」
彼は鼻で笑った。
息子のことよりも、家宝を大切にされたような気がして余程納得がいかなかったようだ。
彼はポツリと溢した。
「……いつか気持ちの整理がついた時、つける」
色を失ったその瞳に胸が痛んだ。
咄嗟にお節介を焼いてしまう。
「……ねぇ、でもそれをなくしたら貴方はきっと死ぬほど後悔するわよ。せめて鍵つきの戸棚とかに保管しておいたら?」
彼はむすっとして指輪と私を交互に見た。
「……確かに」
そう言うと、きょろきょろと辺りを見回し始めた。
私の言葉通りの最適な場所を探しているのだろう。
「……まだ一度もつけていないの?」
腰を折って本棚の下を調べていた彼に、意を決して問いかけた。
「つけていない」
淡々とした返事が返ってきた。
私は少し悩んだ。
父親の最期の願いでもあるその言葉を、このまま本当に無視してしまっていいのだろうか。
「……」
――いや、私がでしゃばることではない。それは彼が決めることだ。
長女の性か、ついお節介を焼いてしまいたくなる。捨てるわけではないのだから、ほとぼりが冷めるまで封印しておくのも、彼の精神衛生上必要なことだろう。辛い思い出を封印しておきたい気持ちはよく分かる。
でも、その前に確かめたい。
彼女の言っていた『指輪』と、彼の持っているその指輪に関係があるのか否かを。
「一度、その指輪を貸してもらえるかしら」
ぴたりと彼は動きを止めた。
そしてしばらく指輪を手に黙り込んでいる。
魔女に家宝を渡していいものかと決めかねているのだろう。
そう思った私は、見るだけで構わないと変更した。また、安心してもらえるよう、両手は机の上に置いておくとも告げた。
「……分かった」
頷いた彼を確認し、お互い執務机を挟み込む形で向かい合った。
「ありがとう」
「あぁ」
彼は先ほどと同じように、手のひらに置いた指輪を目の前に差し出した。
やはり、謎の違和感がある。
じっと見つめていると、その違和感の正体が少しずつ形になっていくのを感じた。
恐らく。
恐らくだがこれは――。
「……魔力が、ある?」




