第9話
――同じ頃、オストマルク王都。
王宮の庭園では、王太子アルノルトと新聖女ミレーヌの婚約披露の宴が、三日三晩続いていた。
「見ろ、ミレーヌ。あれが真の聖女を迎えた国の輝きだ」
噴水に張られた花、溢れる美酒、着飾った貴族たち。アルノルトは上機嫌だった。あの陰気な白紙の聖女を切り捨て、本物を手に入れた。国の未来は明るい。誰もがそう讃えてくれる。
しかし、ミレーヌの笑顔はどこかぎこちなかった。
「殿下……あの、最近、街のほうで妙な話を聞きますの。井戸の水が濁るとか、畑の作物が急に枯れるとか」
「農民の世迷い言だ。不作など毎年どこかで起きている」
「ですが、大聖堂の近くの区画に多いと」
「ミレーヌ」
アルノルトは彼女の手を取り、諭すように微笑んだ。
「君は聖女だが、政治を知らない。民は常に何かに不平を言うものだ。君はただ美しく笑い、時折その素敵な力で花でも咲かせてくれればいい。難しいことは私が考える」
その言葉のどこかに小さな棘を感じたが、ミレーヌは頷いた。この人が正しいのだろう。自分は男爵家の娘で、彼は次の国王なのだから。
それでも彼女は、宴を抜けた帰り道、枯れかけた街路樹にこっそり浄化の力を注いだ。木は少しだけ息を吹き返したが、翌朝にはまた同じ場所から枯れ始めていた。まるで地面の下から、何かに吸われているかのように。その小さな違和感を、彼女はまだ言葉にできずにいた。
宴の輝きから遠く離れた大聖堂の地下で、ザイフェルト枢機卿は冷や汗を拭っていた。
封印の大扉に刻まれた術式のひとつが、昨夜、音もなく罅割れたのだ。三百年間、罅ひとつ入らなかった術式が。
「浄化槽の水位は」
「それが……この一月で、三割も濁りが」
付き従う司祭長の声も震えていた。大扉の奥に封じられた古代の災厄「黒淵」。それを鎮めてきたのは、歴代聖女の祈りという名目で捧げられてきた聖力だった。そして、この二十年間の供給源は――。
「枢機卿様。やはり、あの御方を国外に出したのは」
「口を慎め」
ザイフェルトは司祭長を睨みつけた。
「あの娘が『装置』であったことは、教会最上層のみの秘事。王家すら知らぬ。今さら公にできるか。『貴国の危機はあの娘の追放が原因です』などと、どの口で言う。教会が二十年、小娘一人に国の安寧を負わせていたと認めることになるのだぞ」
「では、いかがなさるのです。新聖女様の力では、水位の維持すら」
「あの男爵令嬢の力は、せいぜい花壇と風邪の域よ。焼け石に水だ」
枢機卿は罅割れた術式を睨み、絞り出すように言った。
「代替の聖力源を探す。文献をすべて洗え。人工的に聖力を精製する方法、あるいは……力を、他者から移し取る方法を」
「枢機卿様、それは禁術の領域では」
「国が滅ぶよりましだ!」
怒声が地下聖堂に反響した。どく、どく、と。扉の奥の鼓動が、それに応えるように一拍、大きくなった。
地上では、宴の花火が夜空を彩っていた。
民衆は美しい光を見上げ、貴族たちは杯を重ね、王太子は勝利に酔っていた。王都の地下深くで飢え始めた「それ」の存在を、まだ誰も知らない。
畑の隅で、一人の老農夫だけが、枯れ始めた麦の根元を掘り返し、首をひねっていた。
「……土が、死んどる」
その呟きは、花火の音に掻き消された。
凋落は、いつも祝祭の音の陰で始まる。国境の遥か向こうで一人の娘が新しい人生を歩み始めたことと、この国の土が死に始めたことを結びつけられる者は、まだ地下の老人ただ一人だった。




