第10話
辺境の春は、王都のそれより遅く、そして濃かった。
婚礼から一月。リーゼロッテの日常は、かつての彼女が想像もしなかった形に落ち着いていた。
朝は好きな時間に起き、ヨハンナと市場へ出かける。昼は聖力の訓練と、領政の手伝い。五カ国語と歴史と算術を叩き込まれた元王太子妃候補の頭脳は、辺境領の帳簿整理と外交文書の翻訳において、思わぬ形で花開いた。
「夫人、また村の連中が礼を言いに来てますよ」
クラウスが執務室に顔を出した。窓の下を見れば、籠いっぱいの卵と野菜を抱えた農婦たちが手を振っている。
先週、村で流行り風邪が広がったとき、リーゼロッテは三日間村に通い詰め、老人と子どもを片端から癒やして回った。祈祷ではなく、自分の腕として力を振るう治癒は、面白いように効いた。
「見返りなど要りませんのに」
「受け取ってやってください。この土地の連中は、借りを作ったままでいるのが一番苦手なんです」
彼女は下りていき、農婦たちと他愛ないお喋りをした。奥方様、旦那様とは仲良くやってるかね。ええ、それなりに。まあまあ、初々しいこと。――契約結婚だとは、口が裂けても言えなかった。
王都の社交界では、令嬢同士の会話ひとつにも三重の意味と二枚の刃が仕込まれていた。ここでは違う。卵は卵で、感謝は感謝だった。その分かりやすさが、彼女には眩しかった。
夕暮れ、丘の上でギルベルトと落ち合うのが、いつからか日課になっていた。
「今日は東の水路の図面を直しました。あの設計では雪解けの増水に耐えません」
「……お前は本当に、何でもやるな」
「暇なのです。祈祷が一日八時間もなくなったので」
軽口に、ギルベルトの口の端がわずかに緩む。最近の彼女は、この石像のような男のわずかな表情の変化を見つけるのが上手くなっていた。
「ギルベルト。私、今の生活が気に入っています」
夕陽に染まる森を眺めながら、彼女は言った。眼下では、畑仕事を終えた領民たちが家路をたどり、炊事の煙があちこちの屋根から立ち上っている。
「誰かの装置でも、誰かの飾りでもなく、ここでは私のやったことが、そのまま誰かの役に立つ。二十年間の空白を、取り戻している気がするのです」
「そうか」
短い相槌。けれどその声が柔らかいことを、彼女はもう知っていた。
その平穏に、一通の書状が届いたのは翌朝のことだった。
差出人は、隣国レーヴェン王国の聖教会総本山。豪奢な封蝋を解いたギルベルトの眉間に、久々に深い皺が刻まれた。
「……国境の光の柱の件、耳に入ったらしい」
「私の暴走の?」
「ああ。『貴領に滞在する聖力保持者について、教会の権威において鑑定の儀を執り行いたい』。丁重な文面だが、要は正体を検分させろという話だ」
「断れば?」
「聖教会は大陸全土に権威を持つ。断れば『何かを隠している』と勘繰られ、それこそ祖国に付け入る口実を与える。……受けるしかない。だが」
ギルベルトは書状を机に置き、彼女を見た。
「言っておく。鑑定の結果がどうであれ、教会がお前を連れて行くことは、俺が許さん。お前はもう、どこかの組織の所有物じゃない。シュヴァルツヴァルトの夫人だ」
その言葉が契約条項の履行なのか、それ以上の何かなのか。リーゼロッテは問わなかった。ただ、胸の奥がほのかに温かくなるのを感じながら、頷いた。
「ええ。堂々とお迎えしましょう。私の力が何なのか――私自身、そろそろ知りたかったところですもの」
十日後、聖教会の鑑定官一行が、辺境の城門をくぐった。




