第8話
婚礼は、十日後に執り行われた。
場所は領内の丘に建つ、小さな古い聖堂。参列者はヨハンナとクラウス、それに式を執り行う老司祭だけ。飾りは野の花、音楽は森を渡る風の音。王都の大聖堂で予定されていた、千人の招待客と七日間の祝宴を伴うはずだった「あの婚礼」とは、何もかもが違っていた。
純白ではなく、森の若葉の色のドレスを選んだのはリーゼロッテ自身だった。白は、もういい。あの色は祈りの日々と一緒に置いてきた。
「誓いの品の交換を」
老司祭の言葉に、ギルベルトが小箱を開いた。中にあったのは指輪ではなく、対の腕輪だった。黒銀の細工に、片方は白い石、片方は黒い石が嵌め込まれている。
「家伝の魔道具を作り直させた。聖力と呪いを繋ぐ導線になる。離れていても、互いの力の異変が伝わる」
「まあ。実用品ですのね」
「……不満か」
「いいえ、あなたらしくて結構です」
白い石の腕輪をリーゼロッテの左手首に、黒い石の腕輪をギルベルトの左手首に。留め金が閉じた瞬間、二つの石が呼応するように淡く明滅した。彼女の内の光と、彼の内の闇が、細い糸で結ばれた合図だった。
「病めるときも健やかなるときも、というのが定型句じゃが」
老司祭が皺だらけの顔をほころばせた。
「お二人の場合はなんと誓われるかの」
ギルベルトは少し考え、言った。
「契約の履行に、誠実であることを」
「では私も。契約の続く限り、あなたの善き隣人であることを」
誓いの口づけは、額に一度だけ。それでもクラウスは盛大に口笛を吹き、ヨハンナは何故か滂沱の涙を流し、老司祭は「近頃の若い者の誓いは新しいのう」と笑った。
式の後は、城の広間でささやかな祝宴が開かれた。料理番が腕によりをかけた森の恵みの料理と、領民が届けてくれた花束の山。噂を聞きつけた村の子どもたちが窓の外から覗き込み、リーゼロッテが手を振ると歓声を上げて逃げていった。千人の招待客はいなくとも、この婚礼には、あの王都の夜会に一度もなかったものがあった。祝福、というものが。
その夜、リーゼロッテは初めて、彼の「変化」を見届けたいと申し出た。
「見て気持ちのいいものではない」
「妻ですもの。契約上の、ですけれど。あなたが毎晩何に耐えているのか、知らないままでいたくないのです」
月が昇ると、それは始まった。ギルベルトの体が軋み、骨が形を変え、黒い靄が皮膚を覆っていく。呻きを噛み殺す声。人の輪郭が崩れ、漆黒の巨躯が現れるまでの数分間は、見ているだけで胸が締めつけられる時間だった。
変化を終えた魔獣は、彼女から距離を取るように部屋の隅へ伏せた。怯えさせまいとする、彼なりの配慮なのだろう。
リーゼロッテは、迷わず歩み寄った。
「リーゼロッテ――」
獣の喉から出る声は低く軋んでいたが、確かに彼のものだった。制止の声を聞かず、彼女は膝をつき、その大きな黒い頭に、そっと手のひらを乗せた。
夜露に濡れた森のような匂いがした。手のひらの下で、獣がびくりと震える。三年間、誰にも触れられたことのなかった姿。
「……怖くないのか」
「ええ。だってこの姿のあなたが、最初に私を助けてくれたんですもの」
彼女は柔らかな毛皮を、ゆっくりと撫でた。
「あなた、こんなに苦しい夜を、三年も一人で越えてきたのね」
金色の瞳が、大きく見開かれた。
やがて獣は目を伏せ、彼女の手に頭を預けた。それはどんな言葉よりも雄弁な、降参の仕草だった。
窓の外では、婚礼の夜の月が、静かに二人を照らしていた。




