第7話
訓練を始めて半月が過ぎた頃、リーゼロッテは執務室に呼び出された。
書類の山の向こうで、ギルベルトは腕を組んで座っていた。いつにも増して眉間の皺が深い。何か重大な話であることは、部屋の空気で分かった。
「単刀直入に言う。俺と結婚しろ」
「…………は?」
淑女教育二十年の成果をもってしても、間の抜けた声が漏れるのを止められなかった。
「求婚、ですか。今のは」
「求婚ではない。契約の提案だ」
ギルベルトは机上に三枚の書面を並べた。几帳面な字で、条項がびっしりと書き込まれている。
「順を追って説明する。第一に、お前の力の問題だ。制御は上達しているが、あの規模の聖力は感情の大波ひとつでまた暴走する。それを中和できるのは、現状、俺の呪いだけだ。つまりお前は俺の傍にいるのが最も安全だ」
「……はい」
「第二に、俺の呪いの問題だ。気づいているか。お前が来てから、夜の変化が楽になっている。お前の聖力が近くにあるだけで、呪いの浸食が緩む。三年間で初めてのことだ」
それは初耳だった。あの淡々とした夜の変化の裏で、彼がどれほどの苦痛に耐えてきたのか、彼女はまだ知らない。
「第三に、お前の身分の問題だ。お前は今、国外追放された無戸籍の元貴族だ。祖国が『危険な力を持つ罪人の引き渡し』を要求してきた場合、俺には保護する法的根拠がない。だが辺境伯夫人であれば話は別だ。お前に手を出すことは、シュヴァルツヴァルトへの宣戦布告になる」
理路整然、完璧な論理だった。感情の入り込む余地が一分もないほどに。
「相互利益の契約だ。愛は求めない。夫婦としての義務も強要しない。部屋も生活も別でいい。お前は力の安定と身分を得る。俺は呪いの緩和を得る。期限は――そうだな、どちらかが契約の必要を失うまで」
言い終えて、ギルベルトは初めて視線を泳がせた。
「……無論、断ってもいい。その場合も保護は続ける。ただ、法的には脆い」
沈黙が落ちた。暖炉の薪が、ぱちりと爆ぜる。扉の外で聞き耳を立てているクラウスとヨハンナの気配に、二人とも気づかないふりをしていた。
リーゼロッテは書面を手に取り、条項を最後まで読んだ。彼女の権利、彼の義務、財産の独立、離縁の自由。それは求婚状というより、誠実すぎる同盟条約だった。
ふ、と笑いが漏れた。
「何がおかしい」
「いいえ。……閣下、私は五歳のときに王家と婚約しました。私の意思を誰一人問わない、家と家の契約でした。二十年かけて分かったのは、あの契約の中に、私の居場所は一行もなかったということです」
彼女は書面を机に置き、真っ直ぐにギルベルトを見た。
「でも、この契約書には私の権利が書いてある。断る自由まで書いてある。政略結婚は二十年やりました。それに比べたら、あなたの契約結婚のほうが、よほど誠実です」
「……つまり」
「お受けします。ふつつか者ですが、契約妻としてよろしくお願いいたします」
差し出された彼女の右手を、ギルベルトは数秒眺め、それからぎこちなく握り返した。剣だこだらけの手は、驚くほど熱かった。
「……ひとつ、訂正しておく」
「なんでしょう」
「閣下はやめろ。契約とはいえ夫婦になる。ギルベルトでいい」
「では私もリーゼロッテと。……ふふ、変な気分ですね。婚約破棄されてから一月も経たずに、次の結婚が決まるなんて」
「不服か」
「いいえ」
彼女は窓の外の森を見て、微笑んだ。若葉の緑が、風に揺れて光っていた。
「人生で初めて、自分で選んだ契約ですもの」




