第49話
冬の終わりの明け方、辺境伯城に、産声が上がった。
「女の子です! 元気な、女の子ですよ!」
産婆の声に、廊下で三時間、彫像と化していたギルベルトが、初めて人間に戻った。駆け込んだ寝室で、汗に濡れた妻が、小さな小さな命を抱いていた。
「……ほら、あなた。お父様ですよ」
おそるおそる差し出された娘を、歴戦の辺境伯は、この世で最も壊れやすい硝子のように受け取った。銀の産毛に、灰色の瞳。赤ん坊は父を見上げ、ふにゃ、と欠伸をした。
「…………」
「あら。泣いていらっしゃるの?」
「……泣いていない」
「はいはい」
娘は、エルナと名づけられた。古い言葉で「若葉」を意味する名だった。白でも光でもなく、若葉。名づけたのは母である。この子の色は、この子が自分で決めればいい――そんな願いを込めて。
エルナの一歳の誕生日と前後して、辺境には佳き報せが続いた。
春、「ひかりの家」が最初の卒業生を送り出した。九人の子どもたち。進路は見事にばらばらだった。治癒師の道を選んだ者、保護区の管理人見習いになった者、そして「力は使わない。パン屋になる」と宣言した者。ミレーヌは卒業式で、その「パン屋志望」の教え子の選択を、誰のよりも大きな拍手で讃えた。
「力を使わない自由も、私たちが教えたことですから」
そう語る彼女の顔は、王都の祈祷室で震えていた娘とは、別人のように晴れやかだった。今や彼女は近隣諸国から視察が来るほどの名物教師で、「浄化のミレーヌ先生」の名は、かつての「聖女ミレーヌ」より、ずっと大切に呼ばれている。
初夏には、城の庭で祝言があった。クラウスとヨハンナである。
「誓いのキスまだー?」と囃す「ひかりの家」の悪童たちと、真っ赤になる新郎新婦。ヨハンナは花嫁衣装のまま、リーゼロッテの前で盛大に泣いた。
「わ、私、お嬢様の追放についていった日、人生で一番いい決断をしたと思ってましたけど……更新です、今日で更新ですぅ……!」
「ふふ。私の人生最良の決断も、あなたを連れて出たことよ。……おめでとう、ヨハンナ」
北からの報せも、届いていた。
新王コンラートの治世は、若き賢王の名をほしいままにしていた。淵病みの後遺症に苦しむ地域への手厚い施策、真相究明委員会の恒久機関化、そして貴族院の改革。かつて枯れた王都の畑は、二年ぶりの豊作に沸いているという。国交は穏やかで、辺境との街道には、難民の代わりに商人の列が行き交っていた。
ツェレ修道院からは、報せは来ない。ただ、修道院のパンが近郷で評判だという噂だけが、風に乗って届いた。それでいい、とリーゼロッテは思う。それが、いい。
秋の夕暮れ、一家は国境の橋を散歩していた。
よちよち歩きのエルナは、父と母に両手を繋がれ、一歩ごとに「あ! あ!」と川面の光を指さした。
「ここはね、エルナ。お母様とお父様が、初めて会った場所よ」
「正確には、お前の母上が空に大穴を開けて、俺が拾った場所だ」
「まあ、人聞きの悪い。……でも、そうね。お母様はここで一度、全部を失くしたの。そうしたら、ここから、全部が始まったのよ」
娘には、まだ分からない話だ。いつか話して聞かせよう。白紙と呼ばれた娘の話を。装置にされた二十年と、それを選び直した日々の話を。笑い話も、痛い話も、隠さずに。この子が自分の道を選ぶとき、母の道が、一つの先例になるように。
夕陽が、三人の影を長く伸ばした。
エルナが繋いだ手をぶんぶんと振り、両親は目を見合わせて笑った。
橋の下を、あの日と同じ川が、金色に光りながら流れていった。




