第48話
その報せは、秋の初めにやってきた。
数日続く微熱と気だるさに、ヨハンナが半ば強引に医師を呼んだ。診察を終えた老医師は、居住まいを正し、破顔した。
「奥方様。ご懐妊です。……おめでとうございます」
部屋の外で聞き耳を立てていたヨハンナの歓声が、廊下に響き渡った。報せは半刻で城中を、その日のうちに領中を駆け巡った。執務中に告げられたギルベルトは、書類の束を三十枚ほど取り落とし、無言のまま執務室から書斎まで歩き、また戻ってきて、ようやく一言「……そうか」と言った。その夜の彼が、眠る妻の傍らで夜通し起きていたことを、彼女は知らない。
領は、お祭り騒ぎになった。
城には毎日、祝いの品が届いた。農婦たちの手編みの産着、狩人たちの験担ぎのお守り、「ひかりの家」の子どもたちが描いた、やたらと手足の長い赤ん坊の絵。ミレーヌは安産に効くという薬草茶の調合に燃え、クラウスは気の早いことに、木馬の設計図を引き始めた。
穏やかな日々だった。……ただ一つ、小さな影を除いては。
それに気づいたのは、やはりギルベルトだった。
ある夜、月を眺めるリーゼロッテの横顔に、彼は静かに問うた。
「……何を、恐れている」
「あら。分かりますの」
「腕輪より、顔の方が正直だ」
リーゼロッテは、まだ膨らみの分からない腹に、そっと手を当てた。長い沈黙の後、彼女はぽつりと言った。
「……この子に、聖力があったら」
声は、囁くほど小さかった。
「私の力は、三百年に一人の器だそうです。血を引くこの子に、力が宿らないとは言えない。もしも宿っていたら……この子は、生まれた瞬間から『大聖女の子』で、『規格外の力の持ち主』で。世界中が、この子の力に注目するわ。期待して、値踏みして、囲い込もうとして――」
手が、微かに震えた。
「私と、同じ道を。歩まされてしまうのではないかと。予言も、婚約も、祈祷室も、形を変えて、この子の前に現れるのではないかと。……協定も作った、学校も建てた、それでも、怖いのです。母親になるというのは、こんなにも、怖いことなのですね」
ギルベルトは、すぐには答えなかった。
彼はただ、妻の隣に座り、その震える手の上に、自分の大きな手を重ねた。
「……俺も、考えた。俺の呪いは解けたが、シュヴァルツヴァルトの血だ。何が伝わるかは、分からん。だから、お前と同じことを恐れて、そして、考え抜いて、答えを一つ持っている」
「……聞かせて」
「歩まされない。――選ぶんだ」
月光の下、彼の声は静かで、揺るがなかった。
「お前の頃とは、世界が違う。誰が違えた? お前がだ。搾取の三百年を暴いたのはお前で、聖女を職業に変えたのはお前で、断り方を教える学校を建てたのもお前だ。この子が生まれてくる世界には、協定があり、監督機関があり、『否』と言った先例として――母親が、いる」
「……」
「力があってもいい。なくてもいい。使っても、使わなくてもいい。この子はそれを、自分で選ぶ。選べるように、俺たちがした。これからもする。……それでも世界がこの子に手を伸ばすなら」
彼は、ふ、と口の端で笑った。
「そのときは、大陸最強の母親と、腕に覚えのある父親が、揃って出ていくまでだ」
リーゼロッテは、目を瞬かせ――それから、泣き笑いの顔になった。
「……ええ。ええ、そうね。そうだったわ」
恐れは、消えはしない。親である限り、きっと一生。けれど恐れの隣に、確かなものを置くことはできる。自分たちが変えてきた世界と、これからも変えていくという意思を。
「ね、あなた。この子が最初に覚える言葉、何がいいかしら」
「……『いや』、だろうな。お前の子だ」
「まあ! ……ふふ、それは、最高の英才教育ですこと」
月の下、二人の笑い声が、静かな夜に溶けていった。




