第50話
春が、来た。
暦を見て、リーゼロッテは小さく笑った。今日は、あの日だ。五年前、王立学園の卒業夜会で、婚約破棄を言い渡された日。
――リーゼロッテ・ヴァイスハウプト。貴様との婚約を、この場で破棄する。
あの声を、今でも覚えている。シャンデリアの光も、突き刺さる嘲笑も、大理石の冷たさも。あの夜、私は人生で一番惨めな女として、あの広間に立っていた。少なくとも、周りの誰もがそう思っていたし、私自身も、半分はそう思っていた。
でも、今なら分かる。
あれは、間違った場所から解放された日だった。
二十年間、私は間違った部屋で祈っていた。間違った人の隣に立たされ、間違った物差しで測られ、間違った名前で呼ばれていた。白紙の聖女。何も描かれていない、価値のない紙。……ふふ。今思えば、悪くない名前だったのかもしれない。白紙ということは、これから何でも描けるということだもの。
あの夜、彼らは私を捨てたつもりでいた。
本当は、私が、間違った人生を捨てる日だったのに。
「かあさま! かあさまってば!」
小さな手が、スカートを引っ張った。物思いは、三歳の暴君によって強制終了された。
「はいはい、エルナ。どうしたの」
「おはな! おかんむり、つくって!」
丘の草原には、春の花が咲き乱れていた。城の裏手のこの丘は、いつからか一家のお気に入りの場所だ。リーゼロッテは娘と並んで座り込み、花冠を編み始めた。少し離れた木陰では、ギルベルトが乗馬の道具を直している。夕餉の前のひととき。なんでもない、いつもの夕暮れ。
「できたわ。はい、エルナ女王陛下」
「わあ! ……かあさまにも!」
娘は不格好な花の輪を、母の銀の髪に、ぐいぐいと載せた。それから満足げに、今度は父のもとへ駆けていき、同じものを黒髪に載せようと悪戦苦闘を始めた。大陸に名を轟かせた辺境伯が、されるがままに頭を下げている。
リーゼロッテは、その光景を眺めながら、草の上に足を投げ出した。
大聖女の名は、今も大陸中で呼ばれる。協定は根づき、学校は二期生を迎え、保護区の森は青々と茂っている。歴史書はきっと、彼女の名を何かしら大層な言葉で記すのだろう。救国の聖女。制度を変えた女。
でも、と彼女は思う。私の人生の一番の成果は、そのどれでもない。
この、なんでもない夕暮れだ。
自分で選んだ土地で、自分で選んだ人と、自分たちで迎えた娘と、花冠を編んでいる。誰にも命じられず、誰にも奪われず、明日も同じように笑っていられると、信じられる。……祈っていた頃の私に教えてあげたい。あなたの祈りは、いつか、こんな形で叶うのよと。
花冠を載せ終えたギルベルトが、娘を肩車して戻ってきた。
「何を笑っている」
「ん……。今日が何の日か、覚えていらっしゃる?」
「……ああ。婚約破棄の日、だろう」
「あら、覚えていて下さったの」
「忘れるものか。……あれがなければ、お前はあの橋に来なかった」
彼は、妻の隣に腰を下ろした。肩の上のエルナが、両親の頭の花冠を見比べて、きゃらきゃらと笑った。
「なあ、リーゼロッテ。聞いたことがなかったが……後悔は、あるか。あの夜のことも、その後のことも、全部ひっくるめて」
リーゼロッテは、夕陽に染まる世界を見渡した。
丘の下には、灯りのともり始めた城と、豊かな畑と、学び舎の屋根。隣には夫の体温、頭上には娘の笑い声、髪には少し不格好な、世界で一番上等な花冠。
一度目の春、私は捨てられた。
二度目の春を、私は選んだ。
彼女は、心の底から、笑った。
「あるはずないでしょう。――この春は、私が選んだんだもの」
春の風が、丘を渡っていった。
物語は、ここでおしまい。彼女のこれからは、彼女のもの。
【完】




