第45話
ツェレ修道院の朝は、鐘より早く、竈の火から始まる。
アルノルトは、夜明け前の厨房で、パン種を捏ねていた。
修道院に来て、一年が経つ。最初の三月は、地獄だった。夜明け前の起床、石鹸くさい麻の僧服、割り当てられる水汲みと薪割り。彼は毎日喚いた。私を誰だと思っている、王太子だぞ、と。老修道院長は、その度に同じことを言った。
「ここには、王太子はおりません。アルノルト修練士がいるだけです。……さ、手が止まっていますよ」
四月目、彼は初めて、自分の割った薪で沸いた湯を飲んだ。
半年目、水汲みの帰り道で転んだ彼を、同輩の老修練士が黙って助け起こし、荷を半分持った。礼の言い方が分からず、彼は俯いたまま歩いた。
八月目、厨房係になった。パンを焦がし、生焼けにし、塩と砂糖を間違え、竈の前で人生で初めて、誰のせいにもできない失敗を数えきれないほど重ねた。
そして今朝。
「――アルノルトさん。このパン、あんたが焼いたのかい」
配給窓口に来た近隣の農婦が、齧りかけのパンを手に、目を丸くしていた。修道院は週に二度、収穫の乏しい家々にパンを分けている。
「……はい。何か、問題でも」
「うんまいよ! 先週までのと大違いだ。ふっくらして。……ありがとうねえ、修練士さん。うちの婆さま、歯が悪いから、固いパンは食べられなくてさ。これなら食べられる」
ありがとう。
その言葉が、胸のどこか深いところに、ことりと落ちた。
考えてみれば――いや、考えるまでもなく、初めてだった。二十六年の人生で、肩書きにではなく、彼のした「何か」に向けて、ありがとうと言われたのは。
王太子だった頃、感謝の言葉は空気のように周りに満ちていた。ありがたき幸せ、恐悦至極。あれは全部、彼の椅子に向けられた言葉だった。椅子を失った彼に、初めて、彼宛ての言葉が届いた。
農婦が去った後、彼は長いこと、窓口に立ち尽くしていた。粉だらけの自分の手を、見知らぬ他人の手のように、じっと見下ろしながら。
その日の午後、畑の草むしりをしながら、彼は山向こうの空を見た。
シュヴァルツヴァルト辺境領。あの女が――リーゼロッテがいる土地。ここからは、彼女が浄化したという森の緑が、稜線越しにわずかに覗く。修道院の井戸水が清いのも、この地方に淵病みが一人も出なかったのも、あの女の力のおかげだと、修道士たちは屈託なく感謝を口にする。
悔しさは、まだある。惨めさも。夜中にふと、あの廃嫡の議場の光景が蘇って、眠れなくなる夜も。
だが最近、それらの底に、別のものが沈殿し始めていた。
――俺は、あの女の何を見ていたのだろう。
二十年隣にいて、彼は彼女の何一つ知らなかった。祈祷の冷たさも、床の窪みも、あの静かな「かしこまりました」の下にあったものも。知ろうとしたことが、一度も、なかった。
それが罪の正体だと気づくのに、椅子と、国と、一年の畑仕事が必要だった。
「アルノルトさん、夕の祈りですよ」
「……今、行きます」
彼は土を払い、立ち上がった。
リーゼロッテは、この修道院を訪ねてこない。この一年、一度も。慰問で近隣の村々を回っても、ここだけは、静かに素通りしていく。
最初は、当てつけかと歯噛みした。今は、分かる。あれは無視ではなく、境界だ。あなたの人生と私の人生は、もう交わらない。それだけの、静かな線引き。
だから彼の償いは、誰にも見られず、誰の点数にもならない場所で、続いていく。
それがおそらく、彼への最も正当な報いであり――そして、遅すぎた学び直しの、始まりでもあった。




