第41話
辺境の城に帰り着いた夜、ささやかな事件が起きた。
夕食後、ギルベルトが、居間の長椅子で眠り込んだのである。
「……旦那様が。あの旦那様が。日没後に。無防備に」
ヨハンナが震える声で言い、クラウスは目頭を押さえた。三年間、この城の主は日が沈むと同時に姿を消し、夜明けまで誰も彼の姿を見なかった。眠りらしい眠りは、昼の短い仮眠だけ。それが今、暖炉の前で、少年のようにあどけない顔で寝息を立てている。
リーゼロッテは毛布を掛けてやりながら、そっと囁いた。
「おやすみなさい。……三年ぶりの、ただの夜に」
呪いの解けた辺境に、穏やかな日々が戻った。いや、正確には――初めて訪れた。
ギルベルトは夜会議ができるようになり、夜の視察ができるようになり、何より、朝までぐっすり眠れるようになった。眠れるようになった途端、彼の眉間の皺が三割減ったと、領民の間でもっぱらの評判だった。
「人相が良くなりましたねえ、伯。夜勤明けみたいな顔が標準装備だったのに」
「うるさいぞ、クラウス」
「ほら、憎まれ口にも張りがある」
城下も春めいていた。開墾地に落ち着いた難民たちの多くは、祖国の復興が進んでも「ここが故郷ですから」と残ることを選んだ。新しい水路が引かれ、新しいパン窯に火が入り、朝市は倍の広さになった。
だが、平和は新しい課題も連れてきた。
「奥方様、伯! 森の様子が、どうも変で」
ある朝、猟師頭が城に駆け込んできた。二人が馬で向かった森は、確かに変わっていた。三百年間、災厄の澱に沈んでいた「魔獣の森」。その空気が、明らかに軽い。澱んだ靄は晴れ、下草には見たこともない花が咲き始めていた。
そして、その明るくなった森の縁に――魔獣たちが、途方に暮れたように、うろうろしていた。
「……襲って、きませんね」
「ああ。むしろ、怯えている」
ギルベルトは馬を降り、一頭の小さな角鹿型の魔獣に歩み寄った。獣は逃げず、心細げに彼を見上げた。呪いは解けても、三年間彼らの王だった男の気配は、覚えているらしかった。
「そうか。……お前たちも、住処を失ったのか」
彼は静かに言った。
「三百年、この森の魔獣は災厄の澱を糧に、澱の霧を隠れ蓑にして生きてきた。それが浄化で、一夜で消えた。連中にとっては、海が干上がったようなものだ」
「……災厄は、この森の秩序でもあった、ということですのね」
リーゼロッテは、途方に暮れる獣たちを見渡した。滅ぼしたものの大きさを、初めて別の角度から突きつけられた気がした。正しいことをした。それは間違いない。けれど、正しさの陰で行き場を失うものも、またいるのだ。
「このままでは、餌を求めて人里へ下ります。そうなれば駆除の話になる。……ギルベルト、彼らはあなたの声を聞きますか?」
「ある程度は。呪いが解けても、縁は残っているらしい」
「なら、道はありますわ」
彼女は、もう頭の中で図面を引き始めていた。
「森の奥に保護区を。魔獣が澱の代わりに糧にできるものを、私の聖力で育てられるか試します。あなたは彼らを奥へ導いて。境界には緩やかな結界を張って、人と獣の縄張りを分けましょう。……駆除ではなく、共存の形を」
ギルベルトは、小さな魔獣の頭を無骨に撫でながら、口の端で笑った。
「相変わらず、仕事の早い奥方だ」
「ええ。暇なのです。世界を救うお仕事が、この冬で終わってしまったので」
「なら次は、獣を救う仕事だな」
新しい春の森に、二人の笑い声が響いた。頭上では、災厄の消えた空を、鳥たちが三百年ぶりに自由に渡っていった。




