第40話
帰路の街道は、春の匂いがし始めていた。
王都を発つ日、沿道は見送りの人波で埋まった。新王太子コンラートは自ら郊外まで馬を並べ、「国の再建が成った暁には、対等な隣人として、改めてご挨拶に伺います」と頭を下げた。ミレーヌは、少しだけ泣いた。「同業者ですから、また現場でお会いします」と言い直して、笑った。
馬車は南へ、五日をかけて国境へ近づいていった。
そして六日目の夕暮れ、一行があの橋に差し掛かったとき――ギルベルトが、御者に停止を命じた。
「……どうなさったの?」
「降りろ。少し、歩く」
彼はそれだけ言って、先に馬車を降りた。クラウスがなぜか咳払いをし、ヨハンナがなぜか目頭を押さえているのを不思議に思いながら、リーゼロッテは差し出された手を取った。
二人は、橋の中央まで歩いた。
夕陽が、川面を金色に染めていた。一年前、罪人の彼女が力の暴走に膝をついた場所。黒い魔獣が、光の奔流へ躊躇なく飛び込んできた場所。すべてが、ここから始まった。橋の石畳には、あの夜の焦げ跡が、まだうっすらと残っていた。
「リーゼロッテ」
ギルベルトが、向き直った。夕陽を背に、その表情は珍しく、緊張で強張っていた。
「契約の話をする。……黒淵は滅んだ。俺の呪いは解け、お前の力の暴走の危険もない。お前の身分は大聖女として大陸中が保証している。つまり、契約書に記した相互利益は、三条とも、履行済みだ」
「……ええ。そうなりますわね」
「契約結婚の根拠は、消滅した。よって」
彼は、懐から古い書面を取り出した。あの日、二人で署名した契約書だった。そして彼は、それを――夕陽に透かし、真っ二つに、破いた。
紙片が、春風に乗って川面へ舞い落ちていく。
「契約は、終わりだ」
リーゼロッテの心臓が、跳ねた。分かっている。分かっていても、その言葉の響きは、一瞬、胸を冷たくした。だが次の瞬間。
ギルベルトが、その場に、片膝をついた。
辺境の無骨な領主が、大聖女でも辺境伯夫人でもない、ただのリーゼロッテを見上げて、小箱を開いた。中には、黒銀の腕輪ではなく――小さな、しかし澄んだ光を宿す、一つの指輪があった。
「だから、改めて言う。千回、練習した」
彼の声は、低く、まっすぐだった。
「利害のためじゃない。呪いのためでも、力のためでも、身分のためでもない。お前が笑うと俺の世界が明るくなるからだ。お前の無茶に肝が冷えて、お前の強さに敵わないと思って、お前の帰る場所でありたいと、俺が、俺の心で望むからだ。……リーゼロッテ。愛している。俺と、結婚してほしい。今度は、愛のために」
川音だけが、しばらく響いた。
リーゼロッテは、両手で口元を覆っていた。指の間から、笑いとも泣き声ともつかないものが漏れた。千回練習したはずのお返事の言葉は、綺麗さっぱり、どこかへ飛んでいた。
「……ずるい、わ。この場所を選ぶなんて」
「効果的な立地は、押さえておく主義だ」
「ふふ……ふふふ、もう、本当に、あなたって人は……」
彼女は涙を拭い、すう、と息を吸い、そして、輝くように笑った。
「お受けします。――お断りする理由を、二十年探しても、見つけられそうにありませんもの」
指輪が、左手の薬指に収まった。腕輪の隣で、それは夕陽を映してきらめいた。
立ち上がった彼の胸に、彼女は飛び込んだ。橋の袂から、クラウスの口笛と、ヨハンナの盛大な泣き声と、護衛団の喝采が響いた。
一年前、すべてを失って渡った橋の上で。
彼女は今、すべてを選び直して、立っていた。




