第4話
どくん、どくん、と鼓動は加速していった。
「お嬢様? 顔色が――」
ヨハンナの声が遠い。リーゼロッテは胸を押さえた。熱い。心臓の奥から、何か途方もないものが噴き上がってくる。それは二十年間、一度も感じたことのない感覚だった。
「駄目、離れて……!」
叫んだ瞬間、世界が白く染まった。
馬車の屋根が吹き飛び、光の柱が天を貫いた。轟音。悲鳴を上げて棒立ちになる馬。護送兵たちが「化け物だ」と叫んで橋の向こうへ逃げ散っていく。
リーゼロッテは橋の上に膝をつき、自分の両手を見た。手のひらから、指の先から、眩い光が奔流となって溢れ出している。止まらない。止め方が分からない。祈祷で習ったどの作法も、この荒れ狂う力の前では紙切れ同然だった。
――これが、私? 白紙と呼ばれた、私の中に、こんなものが?
二十年間探し続けた力は、祝福の形などしていなかった。それは堰を切った洪水であり、器を焼く業火だった。皮肉なものだ。ないと蔑まれた力に、今、殺されようとしている。
「お嬢様!」
「来ないで、ヨハンナ! 巻き込まれる……!」
光は渦を巻き、橋の欄干を軋ませ、川面を沸騰させ始めていた。これが聖女の力だというのなら、あまりに凶暴すぎる。骨が軋む。視界が明滅する。このままでは、自分の力で自分が焼き尽くされる――。
いつしか、日は落ちていた。薄れゆく意識の端で、大地を蹴る重い足音を聞いた。
黒い影が、光の奔流の中へ躊躇なく飛び込んできた。
それは、獣だった。夜を煮詰めたような漆黒の毛皮、狼に似てはるかに巨大な体躯、金色の双眸。魔獣。書物でしか知らない存在が、目の前にいた。
喰われる、と思った。
しかし魔獣は牙を剥かなかった。巨躯でリーゼロッテを包むように伏せると、その黒い体が、溢れる聖力を吸い込み始めたのだ。白い奔流が黒い毛皮に触れ、溶けるように消えていく。まるで乾いた大地が雨を飲むように。
嵐のようだった力が、少しずつ凪いでいく。
「……あなた、は」
魔獣の金色の目が、静かにこちらを見下ろしていた。そこにあるのは獣の獰猛さではなく、ひどく疲れた、それでいて深い理性の光だった。
「苦しく、ないの……こんなに、飲み込んで」
問いに、獣は答えない。ただ、光がすべて収まるまで、微動だにせずそこにいた。
力の奔流が止んだとき、東の空が白み始めていた。一晩中、暴走は続いていたらしい。リーゼロッテの体からは力が一滴も残らず流れ出し、指先ひとつ動かせなかった。
「お嬢様! しっかりして、お嬢様!」
駆け寄るヨハンナの声。霞む視界の中で、リーゼロッテは見た。
朝日が差した瞬間、黒い魔獣の輪郭が崩れ、光の粒子となって解けていく。その中から現れたのは、一人の男だった。黒髪、長身、幾つもの古傷が刻まれた素肌の上に、慌ただしく外套を纏う。歳は二十代半ばか。眉間に深い皺を刻んだ、彫像のように整った、しかしひどく無愛想な顔。
男は倒れたリーゼロッテを一瞥し、低い声で言った。
「……厄介なものが、落ちてきたな」
「あなた……今、獣に……」
「見たことは忘れろ。命が惜しければ」
言葉は刃物のように鋭いのに、男はリーゼロッテを軽々と抱き上げた。その腕は、口調とは裏腹に、壊れ物を扱うように慎重だった。
「その娘をどうする気です!」
食ってかかるヨハンナに、男は面倒くさそうに答えた。
「放置すれば死ぬ。拾って帰る。文句があるならお前も来い」
それが、リーゼロッテと「呪われた辺境伯」ギルベルト・シュヴァルツヴァルトの出会いだった。
彼女の意識は、そこで途切れた。




