↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
帰ってきてほしい? では対等な国家間交渉といたしましょう  作者: 小林翼


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
3/50

第3話

 車輪が石畳を離れ、土の街道を踏む音に変わった。


 護送馬車の小窓から、リーゼロッテは流れる景色を見つめていた。麦の若葉が波打つ丘、点在する農家、遠くに霞む山並み。


「……広いのね、この国は」


 思わず漏れた呟きに、向かいのヨハンナが首を傾げた。


「お嬢様、国外への公務は何度も?」


「一度もないわ。王都から出たこと自体、これが初めて」


「え」


「祈祷の妨げになるからと、遠出は一切禁じられていたの。避暑も、視察も、お母様の実家への里帰りさえ。私の世界は、公爵邸と大聖堂と王宮、その三角形の中だけだった」


 ヨハンナが絶句する。リーゼロッテは苦笑して、また窓の外へ目を戻した。


 二十五になる娘が、生まれた国の景色を知らない。言葉にしてみると、我ながら滑稽だった。歴史書で読んだ東部の穀倉地帯も、地理の授業で暗記した南の港も、彼女にとっては紙の上の記号でしかなかった。


「なら、これからは見放題ですね」


 ヨハンナがからりと言った。


「追放というのは、要するにどこへ行ってもいいということです。誰の許可もいらない。祈祷の予定も、お妃教育もない。明日の朝、何時に起きたって誰にも叱られません」


「……あなたにかかると、国外追放も休暇のようね」


「実際、似たようなものですよ。行き先が決まっていないだけの、長い長い休暇です」


 馬車は宿場町をいくつも越えていった。リーゼロッテは目に映るすべてが新しかった。市場の喧騒、旅芸人の笛の音、夕暮れに家路を急ぐ農夫の荷車。祈りの日々の外側で、世界はこんなにも生きて動いていたのだ。


 二日目の宿では、生まれて初めて屋台の焼き菓子を食べた。素朴な蜂蜜の味に目を丸くする主に、ヨハンナは「お嬢様、それ三枚で銅貨一枚です」と笑った。王宮の晩餐で出たどの菓子より、ずっと美味しいと思った。


 夜、安宿の固い寝台で、彼女は久しぶりに夢も見ずに眠った。



 同じ頃、王都の大聖堂の最奥で、一人の老人が燭台の火を見つめていた。


 ザイフェルト枢機卿。聖教会の実務を三十年握り続けてきた男の顔には、隠しきれない焦燥が浮かんでいた。


「……追放、だと。あの小娘どもは、何も分かっておらん」


 机上には、王家からの通達の写しがある。リーゼロッテ・ヴァイスハウプトの聖女認定取り消し、および国外追放。決定はすでに執行され、娘は国境へ向かっているという。


 枢機卿は震える手で祭壇の裏へ回り、床の隠し扉を開けた。地下へ続く螺旋階段から、饐えた冷気が這い上がってくる。石段を降りた先、幾重もの封印術式が刻まれた大扉の前で、彼は足を止めた。


 扉の向こうから、微かな音がする。


 どく、どく、と。まるで巨大な何かの、鼓動のような。


「静かすぎる……いや、違う。飢え始めておるのだ」


 二十年間、この扉の奥の「それ」は満たされていた。何によって満たされていたのか、知る者は教会の最上層のごく数名しかいない。そしてその供給源が今、一日ごとに国境へ遠ざかっている。


「王家には言えぬ。言えるはずがない。だが、あれが国境を越えれば――」


 老人の独白は、地の底から響いた低い唸りに掻き消された。封印の術式が、ちり、と一瞬明滅した気がした。



 三日目の午後、馬車は国境の河へ差し掛かった。


「お嬢様、見えてきました。あの橋を渡れば隣国です」


 ヨハンナの声に、リーゼロッテは窓から身を乗り出した。古い石造りの橋が、春の光を弾く川面の上に弧を描いている。


 その橋の中央へ、馬車の車輪が乗った瞬間だった。


 どくん、と。


 彼女の心臓の奥で、聞いたことのない音が鳴った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。