第3話
車輪が石畳を離れ、土の街道を踏む音に変わった。
護送馬車の小窓から、リーゼロッテは流れる景色を見つめていた。麦の若葉が波打つ丘、点在する農家、遠くに霞む山並み。
「……広いのね、この国は」
思わず漏れた呟きに、向かいのヨハンナが首を傾げた。
「お嬢様、国外への公務は何度も?」
「一度もないわ。王都から出たこと自体、これが初めて」
「え」
「祈祷の妨げになるからと、遠出は一切禁じられていたの。避暑も、視察も、お母様の実家への里帰りさえ。私の世界は、公爵邸と大聖堂と王宮、その三角形の中だけだった」
ヨハンナが絶句する。リーゼロッテは苦笑して、また窓の外へ目を戻した。
二十五になる娘が、生まれた国の景色を知らない。言葉にしてみると、我ながら滑稽だった。歴史書で読んだ東部の穀倉地帯も、地理の授業で暗記した南の港も、彼女にとっては紙の上の記号でしかなかった。
「なら、これからは見放題ですね」
ヨハンナがからりと言った。
「追放というのは、要するにどこへ行ってもいいということです。誰の許可もいらない。祈祷の予定も、お妃教育もない。明日の朝、何時に起きたって誰にも叱られません」
「……あなたにかかると、国外追放も休暇のようね」
「実際、似たようなものですよ。行き先が決まっていないだけの、長い長い休暇です」
馬車は宿場町をいくつも越えていった。リーゼロッテは目に映るすべてが新しかった。市場の喧騒、旅芸人の笛の音、夕暮れに家路を急ぐ農夫の荷車。祈りの日々の外側で、世界はこんなにも生きて動いていたのだ。
二日目の宿では、生まれて初めて屋台の焼き菓子を食べた。素朴な蜂蜜の味に目を丸くする主に、ヨハンナは「お嬢様、それ三枚で銅貨一枚です」と笑った。王宮の晩餐で出たどの菓子より、ずっと美味しいと思った。
夜、安宿の固い寝台で、彼女は久しぶりに夢も見ずに眠った。
同じ頃、王都の大聖堂の最奥で、一人の老人が燭台の火を見つめていた。
ザイフェルト枢機卿。聖教会の実務を三十年握り続けてきた男の顔には、隠しきれない焦燥が浮かんでいた。
「……追放、だと。あの小娘どもは、何も分かっておらん」
机上には、王家からの通達の写しがある。リーゼロッテ・ヴァイスハウプトの聖女認定取り消し、および国外追放。決定はすでに執行され、娘は国境へ向かっているという。
枢機卿は震える手で祭壇の裏へ回り、床の隠し扉を開けた。地下へ続く螺旋階段から、饐えた冷気が這い上がってくる。石段を降りた先、幾重もの封印術式が刻まれた大扉の前で、彼は足を止めた。
扉の向こうから、微かな音がする。
どく、どく、と。まるで巨大な何かの、鼓動のような。
「静かすぎる……いや、違う。飢え始めておるのだ」
二十年間、この扉の奥の「それ」は満たされていた。何によって満たされていたのか、知る者は教会の最上層のごく数名しかいない。そしてその供給源が今、一日ごとに国境へ遠ざかっている。
「王家には言えぬ。言えるはずがない。だが、あれが国境を越えれば――」
老人の独白は、地の底から響いた低い唸りに掻き消された。封印の術式が、ちり、と一瞬明滅した気がした。
三日目の午後、馬車は国境の河へ差し掛かった。
「お嬢様、見えてきました。あの橋を渡れば隣国です」
ヨハンナの声に、リーゼロッテは窓から身を乗り出した。古い石造りの橋が、春の光を弾く川面の上に弧を描いている。
その橋の中央へ、馬車の車輪が乗った瞬間だった。
どくん、と。
彼女の心臓の奥で、聞いたことのない音が鳴った。




