第2話
ヴァイスハウプト公爵邸の応接間には、氷のような沈黙が満ちていた。
「この、恥さらしが」
父の声は低く、抑えているぶんだけ憎悪が濃かった。卒業夜会から一夜明け、王家からの正式な通達が届いたのだ。婚約破棄、および聖女認定の取り消し。
「二十年だ。二十年、わしがどれだけの金と人脈を注ぎ込んだと思っている。王太子妃の実家という椅子のために、どれだけの借財を負ったと――」
「あなた、おやめになって。この子に言っても仕方のないことです」
母の取りなしは、庇護ではなかった。その視線には娘への労りではなく、損切りを終えた商人の冷めた計算だけがあった。
リーゼロッテは背筋を伸ばして座ったまま、両親の言葉を聞いていた。不思議と、傷つかなかった。この家で自分が「娘」であったことなど、一度もなかったと知っていたからだ。彼女は投資対象だった。そして投資は、失敗した。
「王家より沙汰が下った」
父が羊皮紙を投げて寄越した。
「国外追放。表向きは『他国での静養』とされるが、実質は永久の放逐だ。持ち出しは身の回りの品のみ。ヴァイスハウプトの名を名乗ることも、今後は許さん」
「……かしこまりました」
「かしこまりました、だと? 貴様はそれしか言えんのか! 泣いて詫びるなり、殿下に縋るなりすれば、まだ道はあったものを!」
父の拳が卓を打った。茶器が跳ね、母が眉をひそめる。
リーゼロッテは静かに父を見た。
「お父様。私は五歳から二十五歳までの二十年間、一日も欠かさず祈りました。冬の朝も、熱のある夜も。それでも力は現れなかった。私に足りなかったのは涙でも詫びでもなく、ただの運です」
「口答えを――」
「ですが、感謝しております。この家に生まれなければ、文字も、歴史も、五カ国語も学べませんでした。それらは持ち出しを禁じられても、私の中から奪えません」
父は何かを言いかけ、結局、吐き捨てた。
「三日以内に出ていけ。見送りはせん」
自室に戻ると、荷造りはすでに半分終わっていた。侍女のヨハンナが、旅行鞄に丁寧に衣類を詰めている。
棚に並んだ祈祷書の列を、リーゼロッテはしばらく眺めた。二十年間、擦り切れるまで読んだ本たち。迷った末、彼女は一冊も鞄に入れなかった。代わりに手に取ったのは、幼い頃に一度だけ市井の行商人から買ってもらった、隣国の童話集だった。表紙の隅には、こっそり読んでいて父に見つかり、取り上げられかけた日の折り目がまだ残っている。
「ヨハンナ、あなたまで手伝わなくていいのよ。私付きの侍女でいたことが経歴の傷になる前に、他家への紹介状を――」
「お嬢様」
ヨハンナは手を止め、振り返った。そばかすの浮いた頬に、決意の色があった。
「私もお供します」
「……何を言っているの。行き先は国外よ。どこに落ち着くかも分からない。給金だって払えるか」
「十歳で行儀見習いに上がった日から、私を人間として扱ってくださったのはお嬢様だけです。熱を出した私に、ご自分の夜食を運んでくださったのはどこのどなたでしたか」
ヨハンナは鞄の紐をきゅっと締めた。
「それに、お嬢様はご自分のことになると壊滅的に無頓着です。放っておいたら三日で行き倒れます。給金は出世払いで結構ですので」
リーゼロッテは目を瞬かせ、それから、ふ、と息を漏らした。昨夜、婚約を破棄されたときには出なかった涙が、なぜか今、目の縁に滲んだ。
「……あなた、昔から頑固よね」
「お嬢様ほどではございません」
窓の外では、公爵邸の庭に春の雨が降り始めていた。二十五年暮らした家。しかし懐かしむべき思い出は、驚くほど少なかった。
三日後、二人を乗せた護送馬車は、見送りのない門を静かにくぐった。




