第37話
リーゼロッテは、眠り続けた。
一日目。宮廷医とレーヴェンの医療団が総掛かりで診たが、診立ては同じだった。外傷なし、病なし。ただ、命を灯す力そのものが、涸れ井戸の底に一滴残っているだけ。あとは本人の生命力次第、と。
二日目。王都では歓喜の祝祭が始まっていた。空は晴れ、瘴気は消え、淵病みの新たな患者は一人も出ていない。誰もが救国の大聖女の名を叫んだ。その当人が生死の境にいることは、混乱を避けて伏せられた。
三日目の夜。
離宮の寝室で、ギルベルトは椅子に座ったまま、眠る妻を見つめていた。三日間、彼はこの部屋を出ていない。食事はヨハンナが半ば脅すように運び、彼は機械的にそれを飲み下した。
「……解せんな」
夜半、彼は誰にともなく、低く呟いた。
「呪いが解けた。三年間、夜が来るたび骨を軋ませてきたあれが、綺麗さっぱり消えた。今夜も俺は人の形のまま、月を見ている。……夢にまで見た夜だ。なのに」
彼は、寝台の上の細い手を、両手で包んだ。
「少しも、嬉しくない。お前が目を開けん夜明けなど、呪いの夜より、よほど暗い」
返事はない。規則正しい、しかし細い呼吸だけが続いている。
「なあ、リーゼロッテ。契約結婚と言ったな、俺は。愛は求めない、相互利益だと。……嘘だったよ。いや、あの時は本気だったが、とうの昔に嘘になった。いつからか、はっきり言える。婚礼の夜だ。魔獣の俺に、お前が触れた夜。『こんなに苦しい夜を一人で越えてきたのね』と、お前は言った。……あの瞬間、契約は、俺の中で終わっていた」
月光が、窓から静かに差し込んでいた。
「お前は俺の呪いを恐れなかった。俺の無愛想を面白がり、俺の合理の裏を勝手に読み、俺の傷に勝手に触れて、勝手に……俺の全部を、明るくした。気づけば俺は、お前の笑う顔を見るために生きていた。こんなことは、生まれて初めてだ」
彼は、包んだ手に額を押し当てた。
「だから、戻ってこい。頼む。……戻ってきたら、今度こそ、契約ではなく、俺の言葉で言わせてくれ。この三日間、千回も練習した。もう、そらで言える。だから――」
「……あら」
掠れた、小さな声がした。
ギルベルトは、弾かれたように顔を上げた。
薄く開いた青い瞳が、こちらを見ていた。血の気のない唇が、ふ、と悪戯っぽく持ち上がる。
「千回も練習、なさったの。……聞きたいわ、それ」
「……いつから、起きていた」
「『解せんな』の、あたりから」
「…………全部ではないか」
耳まで赤くなった夫の顔を、リーゼロッテは三日ぶりの視界いっぱいに映して、笑った。笑って、それから、涙が勝手にこぼれた。生きている。戻ってこられた。あの青空の下に、この人の隣に。
「ふふ……ただいま、が先かしら。それとも、おかえりなさい、と言うべき? あなたの夜も、長い旅から帰ってきたのだもの」
「……両方だ」
ギルベルトは、壊れ物を抱くように、そっと彼女を抱き寄せた。震えている、とリーゼロッテは気づいた。この岩のような人が、声もなく。
「両方だ。ただいまで、おかえりだ。……もう二度と、あんな無茶はするな」
「約束はできかねます。あなたを救えるなら、私、何度でも」
「リーゼロッテ」
「ふふ、ごめんなさい。……ね、ギルベルト。千回練習した言葉、今は言わないで」
彼女は、彼の背に腕を回した。
「もっと元気になったら、ちゃんとした場所で、聞かせて。私も、お返事の言葉を、千回練習しておきたいの」
夜明けの最初の光が、二人の輪郭を静かに縁取った。




