第36話
大穴の底で、それは、いよいよ目覚めようとしていた。
黒い奔流が渦を巻き、深淵から巨大な「輪郭」が浮かび上がってくる。形容する言葉を、人はまだ持っていない。あえて言うなら、それは飢えそのものだった。三百年分の、底のない飢え。
――こわいものが、きえた。もう、じゃまはいない。
――たべる。ひかりを。まちを。くにを。ぜんぶ。
「……ミレーヌ様。ここから先は、下がって。ギルベルトは、私の隣に」
リーゼロッテは大穴の縁に立ち、左手首の腕輪に右手を重ねた。傍らに、傷だらけの魔獣が並ぶ。腕輪の白い石と黒い石が、呼応して明滅を始めた。
「経路を、開きます。……痛むわ、きっと。ごめんなさい」
「構わん。……行け」
彼女は目を閉じ、自らの内の大河へ、意識を沈めた。
二十年間、吸われ続けた力。辺境で取り戻し、育て、飼い慣らした、彼女だけの大河。その水門を、今、すべて開く。
白金の奔流が、腕輪を通じて魔獣の体へ流れ込んだ。
獣が苦鳴を上げる。負の呪いの経路を、正の力が焼きながら進む。呪いから、遥か彼方の森の災厄へ。森の災厄から、地下茎の根を遡り――王都の本体へ。二つの半身が、根で繋がるその一点へ。
――!? なんだ。なんだこれは。ひかりが、ねから、のぼってくる。
深淵の輪郭が、初めて、怯えたように蠢いた。
――ちがう。これは、えさじゃない。やめろ。やめろやめろ。
「ええ、餌ではないわ」
リーゼロッテは目を開いた。虹色の燐光が、彼女の全身から立ち上っていた。
「二十年間、あなたは私から奪い続けた。私の力を、時間を、居場所を、名前さえも。……でもね、今日のこれは、奪われるのではないの」
力の奔流が、轟音を上げて増した。
「私の意思で、注ぐのよ。私の力を、私の判断で、私の守りたいもののために。――その違いが、あなたを滅ぼすの」
根を伝った白金の光が、深淵の中心で、花のように開いた。
音のない絶叫が、世界を揺らした。黒い輪郭が内側から光に喰い破られていく。三百年の飢えが、暴食の果てに、初めて満たされ――満たされたまま、燃え尽きていく。同刻、遥か辺境の森でも、地に沈んだもう半身が、根ごと白光に呑まれて消えた。
空を覆っていた黒が、割れた。
冬の青空が、覗いた。街のあちこちで、瘴気の魔物が砂のように崩れていく。誰かの歓声が上がり、それは瞬く間に、都中を覆う大歓声になった。
魔獣の輪郭が光の粒子となって崩れ、中から、人の姿のギルベルトが現れた。胸元の黒い紋様が、雪のように剥がれ、消えていく。三年間、彼を苛んだ呪いの、終わりだった。
「……消えた。呪いが……」
彼は自分の両手を見つめ、それから、傍らの妻を振り返った。
リーゼロッテは、微笑んでいた。
青空を背に、燃え尽きる寸前の蝋燭のような、透きとおった微笑みだった。
「……よかった。あなたの夜が、終わって……」
膝が、崩れた。
「リーゼロッテ!」
ギルベルトが抱き留めた体は、羽根のように軽かった。大河の水は、一滴残らず注ぎ尽くされていた。命の火を灯す分すら、残さずに。
「おい、しっかりしろ! リーゼロッテ! 目を開けろ!」
「ふ、ふ……大きな声。耳元で、怒鳴らないで……」
薄れる意識の中で、彼女は思った。ああ、空が青い。この人の呪いは解けた。街は守られた。二十年の清算は済んだ。上出来だ。上出来すぎて――少し、眠い。
「寝るな! 約束しただろう、一人で呑み込むのは禁止だと! お前がそれを破ってどうする! おい……!」
抱きしめる腕の熱を、遠くに感じながら。
彼女の意識は、白い静寂へ落ちていった。




