第35話
大穴の縁で術式の準備に入った、その刹那だった。
「させぬぞぉぉぉ……!」
瓦礫の山が爆ぜ、黒い影が躍り出た。
それは、かろうじて人の形を保った、何かだった。裂けた法衣、倍以上に膨れ上がった異形の腕、皮膚を覆い尽くす黒淵の紋様。濁りきった白い眼だけが、憎悪の形に、まだ人間だった。
「ザイフェルト枢機卿……いえ、もう、枢機卿だったもの、かしら」
「神だ……わしは、神になったのだ……」
異形は、耳障りに笑った。黒い涎が、顎から糸を引いた。
「力が、溢れておる……これが黒淵、これが三百年の秘蹟の正体……素晴らしい……もはや聖女も、教会も、王も要らぬ……この国は、わしが、わしの力で……」
「その力に、あなたはもう半分喰われています。ご自分の腕をご覧なさい。もう、あなたの形をしていない」
「黙れ……黙れ黙れ黙れ! 装置の分際でぇ!」
異形の腕が、鞭のようにしなって振り下ろされた。
衝撃を受け止めたのは、割り込んだ漆黒の巨躯だった。魔獣と異形が組み合い、瓦礫を砕きながらもつれる。膂力は互角――いや、黒淵の力を帯びた異形が上か。
「ギルベルト!」
「構うな……! 術の、準備を!」
押し込まれながら、獣が吼えた。だがリーゼロッテの術式は、大掛かりな聖力の練り上げを要する。撃てるまで、あと数十秒。その数十秒を、異形は許さないだろう。
そのときだった。
異形の足元から、光の鎖が幾重にも噴き上がり、その巨体を縛り上げた。
「なに……!?」
「……お忘れかも、しれませんが」
瓦礫の稜線に、小柄な影が立っていた。祈祷服の裾は裂け、額には汗、それでも両手はしかと印を結んでいる。ミレーヌだった。
「この国には、聖女が、二人いるんです……!」
「ミレーヌ様! 結界は」
「聖騎士様たちに、繋ぎを任せてきました! 私の力は小さいけれど……縛るだけなら、削るだけなら、できる! この一年、それだけは、誰よりもやってきましたから! だから、あなたは、撃つことだけを!」
「小娘がァァ!」
異形が藻掻き、光の鎖が軋む。魔獣が組みつき、その動きを封じる。二重の枷。それでも黒淵の力は膨れ続け、鎖は一本、また一本と弾け飛んでいく。
「装置ども……装置の分際で、わしに、逆らうなァ!」
「――ええ、そこです。あなたの敗因は」
リーゼロッテの声は、静かだった。練り上げた聖力が、彼女を中心に白金の柱となって立ち上る。風が渦を巻き、瓦礫の粉塵が光に灼かれて消えた。
「あなたは三十年、人を装置としてしか見てこなかった。聖女は力の器。民は治める数。だから分からないのです。装置ではない人間が、誰かのために立つとき、どれほどの力が出るものか」
彼女は右手を、まっすぐに異形へ向けた。
「私は装置ではありません。聖女ですら、なくてもいい。夫がいて、共に立つ友がいて、背中を押してくれる街がある。私は、リーゼロッテ。――それだけで、あなたに負ける理由が、ひとつもありません」
白金の閃光が、迸った。
光は縛られた異形を貫き、その身に巣食う黒淵の力だけを、外科医の刃のように正確に灼き払った。断末魔の絶叫が瓦礫の谷にこだました。黒い紋様が剥がれ落ち、膨れた体が萎み――後には、白目を剥いて泡を吹く、ただの痩せた老人だけが転がった。
「浄化完了。……お望み通り、神の裁きではなく、人の法で裁かれてくださいな」
リーゼロッテは息を整え、大穴へ向き直った。ミレーヌと魔獣が、左右に並んだ。
前哨戦は、終わった。本番は、これからだった。




