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帰ってきてほしい? では対等な国家間交渉といたしましょう  作者: 小林翼


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第32話

 地下への螺旋階段は、封印の大扉の手前で行き止まりになっていた。


 正確には――塞がれていた。人の背丈の三倍はある黒い障壁が、通路全体を覆っている。瘴気が凝固したかのような、禍々しい壁だった。


「これは……昨日まで、なかったはずです」


 ベルンハルトの声が震えた。障壁の向こう、大扉の前の広間から、声が響いた。


「来たか。偽りの大聖女よ」


 ザイフェルト枢機卿だった。


 障壁越しに見えるその姿に、一同は息を呑んだ。枢機卿の法衣の隙間から覗く皮膚には、黒い紋様が血管のように走り、両の眼は白目まで昏く濁っていた。その足元には、破り取られた手記の頁と、描きかけの巨大な術式。


「枢機卿……あなた、まさか」


「三つ目の禁術。……ああ、そうだ。黒淵の力を、この身に取り込んでいる」


 老人は、両腕を広げた。黒い瘴気が、嬉々としてその身に纏わりついていく。


「考えてもみよ。三百年、教会は綱渡りをしてきた。聖女という不確かな器に、国の命運を委ねて。だが、もう終わりだ。わし自身が黒淵と一つになり、わし自身が封印となる。聖女はもう要らぬ。神の代行者たるこのわしが、永遠にこの国を――」


「あなたが最初に壊れます」


 リーゼロッテの声は、憐れみを帯びていた。


「手記を読んだのでしょう。『黒淵は滅せず』と。人の身にあれを容れて、御しきれるはずが」


「黙れ、小娘! 貴様に何が分かる!」


 濁った眼が、憎悪に燃えた。障壁がびりびりと震えるほどの絶叫だった。


「貴様さえ、貴様さえ大人しく装置でいれば、すべては丸く収まっていた! 三百年の秘法も、教会の威信も、わしの三十年も! それを、それを貴様は……よくも、よくもすべてを暴きおって……!」


 ああ、とリーゼロッテは理解した。この老人は、国を救おうとしているのではない。守ろうとしているのだ。自分が人生を捧げた「三百年の欺瞞」を。それが崩れれば、彼の三十年もまた、ただの罪に変わるから。人は、認めるくらいなら、世界ごと壊すことを選ぶ生き物なのだ。


「聖女が装置なら、わしは神になろう。……もはや貴様の浄化など、させぬ。見よ」


 枢機卿が、黒く染まった手を大扉にかざした。


 封印の術式が――外から、こじ開けられていく。


「なにを……! おやめなさい、それは自殺行為よ!」


「黒淵の力を取り込むには、扉が邪魔なのでな。案ずるな、すべてわしが呑み干し、わしが新たな封印となる。貴様は指を咥えて、そこで見ているがいい」


 術式の紋章が、ひとつ、またひとつと砕けていく。障壁の向こうで、大扉の亀裂が蜘蛛の巣のように広がった。リーゼロッテは障壁に手を当て、聖力を叩き込んだ。黒い壁が軋み、白光と拮抗する。だが、破るには時間が要る。その時間が、なかった。


「リーゼロッテ! 下がれ!」


 ギルベルトの叫びと同時に、彼女は聞いた。


 どくん、と。


 二十年間、彼女の力を吸い続けた「それ」の鼓動を。あの橋で聞いたものの、何百倍も大きな脈動を。扉の奥から、声ならぬ声が津波のように押し寄せた。


 ――ひかり。あのひかりだ。かえってきた。


 ――たべたい。ぜんぶ。こんどこそ、うつわごと。


 全身が総毛立った。それは、彼女を「覚えて」いた。


「まずい、皆、地上へ! 走って!」


 一行が螺旋階段を駆け上がる背後で、世界がひび割れる音がした。石壁が軋み、天井から砂礫が落ち、階段そのものが波打つように揺れた。


 枢機卿の哄笑と、断末魔じみた絶叫が、混ざり合って響いた。取り込んだ力に、老人自身が呑まれ始めた音だった。


 ――決壊は、始まってしまった。


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