第31話
浄化決行の三日前、封印の実地調査が行われた。
封鎖壁の門をくぐると、瘴気は霧雨のように肌にまとわりついた。ミレーヌの張った防護結界の内側を、リーゼロッテは大聖堂へ向かって歩いた。同行はギルベルトと聖騎士の一隊。教会側の案内役は、あの告発文書の主、老司祭ベルンハルトだった。
「枢機卿は」
「一昨日から、姿が見えませぬ。地下におられるのではと……お恥ずかしい話ですが、今の教会に、あの方を止められる者はおりません」
大聖堂の内部は、静まり返っていた。
ステンドグラスは瘴気で曇り、燭台の火は消え、祭壇には埃が積もっている。リーゼロッテは身廊を進み、やがて、記憶の中の扉の前で足を止めた。
石段を三つ下がった、半地下の祈祷室。
「……ここだけは、変わらないのね」
重い扉を押し開ける。冷たい石の床、小さな祭壇、明かり取りの高窓がひとつ。五歳から二十五歳まで、彼女の一日の大半が閉じ込められていた、六歩四方の世界。
ギルベルトが入り口で足を止めた。
「……ここで、二十年か」
「ええ。夜明け前から日没まで。冬は指がかじかんで、組んだ手が解けなくなるの。ここの床の冷たさを、私の膝はまだ覚えているわ」
彼女は部屋の中央に進み、床の一点を見つめた。すり減って、わずかに窪んだ石。数万時間、同じ場所に膝をつき続けた、二十年の刻印だった。
そのとき――高窓から差した光の加減か、瘴気の見せる幻か。
窪みの上に、小さな影が見えた気がした。
白い祈祷服の、幼い少女。組んだ手は赤くかじかみ、細い肩は震え、それでも一心に、届かない天へ祈り続けている。五歳の、あるいは十歳の、あの日の自分。
『……どうして、なにも起きないの』
幻の声が、聞こえた気がした。
『きょうも、だめだった。かみさまは、わたしのこえが、きこえないの? わたしの祈りかたが、わるいの? わたしが、わるい子だから?』
リーゼロッテは、静かに膝を折った。窪んだ石の前に、あの日と同じ姿勢で。そして、震える小さな幻の肩を抱きしめるように、両腕を伸ばした。
「……いいえ。あなたは、なにも悪くない」
声に出して、言った。二十年間、誰も言ってくれなかった言葉を。誰よりも、自分自身が言うべきだった言葉を。
「あなたの祈りは、届かなかったんじゃない。奪われていたの。あなたのせいじゃない。祈り方のせいでも、心がけのせいでもない。……そして、聞いて。あなたの祈りは、無駄ではなかった」
幻の少女が、顔を上げた気がした。
「あなたがこの冷たい床で耐えた一日一日が、この国の畑を実らせ、井戸を清め、何万人の朝ごはんを守っていた。誰も知らなくても、感謝されなくても、この国は確かに、あなたが守っていたのよ。……あなたは、白紙なんかじゃない。最初から、ずっと」
瞼の裏が熱くなった。
「だから、もういいの。もう祈らなくていい。もう、ここに座らなくていい。……自分のために生きていいの。大丈夫。この先のあなたは、ちゃんと幸せになるわ。口の悪い、優しい人に出会って、選んで、選ばれて――今、とても、幸せよ」
光が翳り、幻は消えた。
後に残ったのは、すり減った石の窪みと、頬を伝う涙だけだった。彼女はゆっくりと立ち上がり、振り返った。入り口で、ギルベルトが黙って待っていた。何も聞かず、何も言わず、ただ手を差し伸べて。
その手を取り、リーゼロッテは祈祷室を出た。
もう、振り返らなかった。二十年の総決算は、済んだ。
「――さあ、地下へ。仕上げに参りましょう」




