第33話
地上に飛び出した瞬間、大聖堂の尖塔が崩れ落ちた。
いや、崩れたのではない。地の底から噴き上げた黒い奔流が、内側から石造りの塔を突き破ったのだ。黒い柱は空に達し、傘のように開いて、王都の空を覆い始めた。
「結界を! ミレーヌ様、市街との境界線に全力を!」
「や、やっています……!」
封鎖壁の線に沿って、ミレーヌの張った光の壁が展開する。だが黒い奔流からこぼれた瘴気の塊が、次々と地に落ち、蠢き、形を成していく。犬に似たもの、蛇に似たもの、人に似た、もっと悪いもの。瘴気の魔物だった。
「聖騎士隊、市民の避難誘導! 魔物は近づけさせるな!」
クラウスの号令で、隊が散開する。街のあちこちで悲鳴が上がり、鐘が乱打され、王都は瞬く間に戦場になった。ヨハンナは避難民の列の先頭で、迷子を抱え上げて走っていた。
リーゼロッテは崩れた大聖堂を睨んだ。黒い奔流の中心、瓦礫の底に、それはいた。まだ全容は現れていない。決壊は部分的だ。本体が這い出すまで、恐らく数刻。その前に根へ到達し、浄化を撃ち込むしかない。
「ミレーヌ様は結界の維持を! 私は地下の根を――」
言いかけた、そのときだった。
左手首の腕輪が、焼けつくように熱くなった。
振り返る。ギルベルトが、膝をついていた。真昼の光の下で、その輪郭が黒く滲み、揺らいでいた。
「ギルベルト!?」
「……来る、な」
呻く声が、既に半分、獣のそれだった。皮膚の下を黒い紋様が走り、指先が鉤爪に変わっていく。昼の変化。あってはならないことが、起きていた。
「そんな、どうして、昼に……」
言いながら、彼女は悟った。二つの災厄は、根で繋がった一株の毒草。王都の半身が解き放たれれば、森の半身も呼応して猛る。そして森の災厄の「栓」は――この人だ。何百里離れていようと、栓には全圧がかかる。
「王都の黒淵を止めなければ、森も暴走する。でも、彼の呪いが今、限界で……」
目の前で、選択肢が二つに裂けた。
地下へ走り、根を断つか。それには数刻かかる。その間、変化の激痛と呪いの重圧に、衰弱しきった彼の体が保つ保証はどこにもない。
彼の傍に残り、聖力で呪いを宥めるか。それは黒淵の本体が這い出すのを待つことと同義だ。王都が、何十万の民が、呑まれる。
「リーゼ、ロッテ」
半ば獣と化した喉から、彼は言葉を絞り出した。金色に変わり始めた眼が、それでもまっすぐに彼女を射抜いていた。
「俺に、構うな。……行け」
「……っ」
「お前にしか、根は断てん。俺は、保たせる。三年、こいつと付き合ってきた。御し方は、心得ている。だから――」
「嫌です」
声が、勝手に出た。
「嫌。置いていくのは、嫌。あなたはいつもそう、いつも自分だけが代償を払う側に立って、合理だと言って、一人で呑み込んで……! 今度という今度は、聞きません!」
「わがままを、言うな。比較の問題だと、教えたはず、だ」
「ええ、教わりました。ですからこれは、わがままではありません」
リーゼロッテは、涙の膜の張った目で、しかし不敵に笑ってみせた。頭の中で、何かが凄まじい速さで組み上がっていく。腕輪。対の構造。繋がった根。彼の呪いは森の災厄に繋がり、森の災厄は王都の黒淵に繋がっている。ならば――。
「二者択一なんて、まっぴらです。両方です。両方、救います」
「……なに?」
「ギルベルト。あなたの呪い、私に貸してくださいな」
黒い奔流が空を覆う下で、彼女は、王都の誰よりも晴れやかに宣言した。
「たった今、思いついたことがあるの。――とびきりの、荒業を」




