第22話
その朝、ギルベルトは朝食の席に現れなかった。
彼は日の出と共に起きる男だ。三年間、呪いに苛まれた夜の翌朝でさえ、一度として執務を欠かしたことがない。嫌な予感に、リーゼロッテは廊下を走った。左手首の腕輪が、氷のように冷たくなっていた。
寝室の扉を開けると、彼は床に倒れていた。
「ギルベルト!」
駆け寄って抱き起こす。息はある。だが顔色は紙のように白く、額には脂汗、そして――胸元から首筋にかけて、黒い痣のような紋様が、皮膚の下で脈打っていた。呪いの澱。夜明けと共に消えるはずのものが、朝日の中に残っている。
「医師を! クラウス、誰か!」
城は騒然となった。領で一番の医師が呼ばれ、レーヴェンから宮廷医まで取り寄せられたが、診立ては同じだった。原因不明。外傷なし、病変なし。ただ、生命力そのものが、内側から削られている。聖力での治癒も試みたが、彼女の光は彼の澱に触れた途端、油に落ちた水のように弾かれた。
「……呪いだ」
夕刻、意識を取り戻したギルベルトが、掠れた声で言った。
「峠の夜から、ずっと悪化していた。お前の力が本来の水位に近づくほど、腕輪が釣り合いを取ろうとして、俺の呪いを深く引き摺り出す。……ここ数日は、昼も澱が抜けなくなっていた」
「なぜ! なぜ言ってくださらなかったの!」
「言えば、お前は力を使うのをやめる」
彼は、当然のことのように言った。
「難民の治療も、淵病みの研究も、やめてしまうだろう。お前がようやく手に入れた、お前の人生だ。俺の呪いごときで、止めさせられるか」
「呪いごとき……あなたは、あなたという人は……!」
リーゼロッテは、彼の手を握りしめた。声が震えて、続かなかった。
合理の男。すべてを損得で語り、感情を表に出さず、そのくせ、いつも代償を自分の側に積む男。契約だと言いながら、この人はずっと、契約以上のものを黙って差し出し続けてきた。
「……腕輪を、外しましょう」
「駄目だ」
「あなたが死んでしまう!」
「外せば、お前の暴走を止められん。大聖女の力が暴走すれば、この領ごと消し飛ぶ。比較の問題だ」
「比較ですって」
涙が、堰を切った。
「あなたの命と、私の安全を、天秤にかけないで。お願いだから。私はもう……もう、あなたのいない食卓で朝食をとる想像だけで、息ができなくなるのに」
言ってしまってから、気づいた。
ああ、そうか。そういうことか。
この胸の痛みに、名前があることくらい、二十五にもなれば知っている。知っていて、気づかないふりをしていた。契約だから。愛は求めないと、書面に書いてあったから。
ギルベルトは、驚いたように目を見開いて、こちらを見ていた。彼女は涙を拭いもせず、無理やり微笑んだ。
「……とにかく、今は眠って。力は、最小限に抑えます。その間に、必ず、別の道を見つけますから」
彼が眠りに落ちた後も、リーゼロッテは寝台の傍らを離れなかった。
夜が更け、月光が窓から差し込む。呪いの澱のせいか、今夜の彼は魔獣に変化することもなく、ただ浅い呼吸を繰り返していた。その寝顔は、いつもの厳めしさが抜け落ちて、ひどく無防備だった。
彼女は、眠る彼の黒髪にそっと触れた。
「……私、あなたに恋をしているのだわ」
声に出すと、それは驚くほどすとんと胸に収まった。
「契約違反かしら。それとも……あなたも少しは、違反してくださっているのかしら」
答えはない。ただ、規則正しい寝息だけが返ってきた。
彼女は決めた。この人を救う。呪いの根がどこにあろうと、たとえそれが、あの憎い王都の地下だろうと。




