第20話
冬のオストマルク王宮は、外よりも内側が寒かった。
「ヴェッセルス侯が、領地に引き上げただと?」
アルノルトは執務室で報告書を握り潰した。ヴェッセルス侯爵といえば、王家派の筆頭格である。その男が「領地経営に専念する」との口上を残し、一族郎党で王都を去った。
「殿下……侯だけではございません。この一月で、王都の屋敷を閉じた貴族家は十七。皆、口には出しませんが、その、沈む船から」
「言うな!」
側近の言葉を怒声で遮り、王太子は窓辺に立った。
眼下の王都は、灰色だった。市場の火は減り、大聖堂の周辺は立ち入りが制限され、通りには炊き出しの列と、扉に黒布を下げた家々。淵病みの死者は、先週ついに千を超えた。
なぜだ、と彼は思う。心の底から、本気で。
なぜこうなった。俺は正しいことをしたはずだ。力なき偽物を捨て、本物の聖女を迎えた。国は栄えるはずだった。歴史に名を残す賢君になるはずだった。誰もがそう言った。あの夜会で、誰もが俺を讃えた。
「……そうだ、ミレーヌだ」
思考は、いつもの場所へ滑り込んだ。
「本物の聖女なら、国を癒やせるはず。癒やせていないのなら、あれの力が足りぬのだ。あるいは、怠けている」
「殿下、聖女様は連日、倒れるまで浄化を」
「結果が出ていないと言っている!」
そのとき、扉が控えめに叩かれた。入ってきたのは、当のミレーヌだった。頬はやつれ、祈祷服の下の体は薄くなっていたが、その目には以前にはなかった、静かな光が宿っていた。
「殿下。お話がございます」
「ちょうどいい、こちらにも話がある。東部の浄化が遅れていると報告が」
「その浄化のことです」
ミレーヌは、まっすぐに王太子を見た。
「殿下。私の力では、この国は救えません」
「……何だと」
「三月、力の限りを尽くして分かりました。この国を蝕んでいるものは、私の浄化で追いつく規模ではない。原因は大聖堂の地下にあります。私が何度申し上げても、教会は調査を拒む。殿下からも枢機卿様に――」
「黙れ!」
アルノルトは机を殴りつけた。
「できないだと? 聖女が? ならば貴様は何のためにここにいる! 俺が貴様を選んだのは、貴様が本物だからだぞ。それを今さら、できません、原因は他にあります、だと? ……ふん、分かったぞ。あの女だな。貴様が俺を誘惑して、あの女を追い落とさせた。すべては貴様の企みか!」
それは、あまりにも見事な責任転嫁だった。
ミレーヌは、目を見開き――それから、すう、と息を吸った。不思議と、涙は出なかった。代わりに、胸の奥で何かが、静かに終わる音がした。恋、と呼んでいたもの。夜会で手を取られた日から信じてきたもの。それは今、目の前で、自分の保身のために形を失った。
「……誘惑、ですか」
「そうだろう! 貴様さえ現れなければ」
「あの夜会であの方を『白紙』と嘲り、婚約破棄を高らかに宣言なさったのは、殿下、あなたです。私は、それを止めなかった愚か者。あなたは、それを行った愚か者。それだけのことです」
「な……に……?」
「お暇いたします。浄化は続けます。あなたのためではなく、民のために」
一礼して部屋を出たミレーヌは、廊下の窓から灰色の街を見下ろした。この景色を変える力が、自分には足りない。ならば、ある人に頭を下げるだけだ。
自室に戻ると、机に向かった。取り出したのは、便箋と、あの手帳。最初の頁の問いの下には、この三月で書き溜めた考察がびっしりと連なっていた。
彼女はペンを取り、一通の手紙を書き始めた。
宛名は――リーゼロッテ・シュヴァルツヴァルト辺境伯夫人。




