第19話
その男は、周到に「非公式」の体裁を整えてやってきた。
国章のない馬車、紋のない外套。しかし物腰と尊大さは、宮廷人のそれを隠しきれていなかった。オストマルク宮内府の高官、ラング子爵と名乗った男は、辺境伯城の応接間に通されるなり、値踏みするように室内を見回した。
「ほう。噂の大聖女様のお住まいにしては、随分と質素な」
「用件を」
ギルベルトの声は氷点下だった。ラングは咳払いし、恩着せがましい猫撫で声を作った。
「単刀直入に申しましょう。リーゼロッテ殿。祖国が、あなたを必要としています」
彼は芝居がかった仕草で両手を広げた。
「王都の状況はお聞き及びでしょう。土地は枯れ、病が蔓延し、民は苦しんでいる。あなたの浄化のお力があれば、この国難は救われる。つきましては一時帰国の上、王都の浄化にご協力いただきたい」
「……条件を伺いましょう」
「条件?」
ラングは、心底不思議そうな顔をした。
「条件も何も。祖国の危機ですぞ。オストマルクに生まれた者として、国に尽くすのは当然の忠誠。むろん無償で、です。ああ、ご安心を。浄化が成った暁には、あなたの追放処分の『減刑』を、上に掛け合って差し上げてもよろしい」
男は自分の言葉に酔ったように頷いた。恩を売りに来たつもりなのだ。この男の頭の中では、追放した女に無償奉仕を求めることが「機会を与えてやる」ことになっているらしい。
応接間の空気が、音を立てて凍った。
クラウスが天井を仰ぎ、ヨハンナの持つ盆の上で茶器がカタカタ鳴った。ギルベルトの拳が握られるより早く、リーゼロッテが静かに口を開いた。
「三つ、確認させてくださいませ」
「なんなりと」
「一つ。私は貴国から追放された罪人です。罪人の入国は、貴国の法で禁じられておりますが?」
「そ、それは特例を」
「二つ。私は現在、シュヴァルツヴァルト辺境伯夫人であり、レーヴェン王家の後見を受ける大聖女です。他国の要人を無償で徴用するおつもりですか。それは外交上、何と呼ばれる行為でしょう」
「い、いや、徴用などとは」
「三つ」
リーゼロッテは、初めて笑った。花のように綺麗で、刃のように冷たい笑みだった。
「『忠誠』と仰いましたね。私を白紙と嘲り、装置として使い潰し、用が済めば着の身着のまま国境へ捨てた国に、私はまだ何かを負っているのでしょうか。あの日、婚約破棄の書面と共に、貸し借りはすべて清算されたと理解しておりますが」
ラングの顔が、赤から白へ、白から紫へと変わった。追い詰められた小役人は、最後の手段とばかりに声を荒げた。
「き、貴様……! 恩知らずな女め、国が滅べば貴様のせいだぞ! 何万の民が死ねば、その血は貴様の手に――」
言い終わらなかった。
ギルベルトが立ち上がっていた。ただ立ち上がっただけだ。しかし歴戦の辺境伯が無言で放つ圧は、獣のそれだった。ラングの喉が、ひゅ、と鳴った。
「妻を貴様と呼ぶな。二度目はない」
「な……」
「民の血の責任は、民を飢えさせた統治者が負うものだ。それを追放した娘一人に転嫁しに来たか。オストマルクの宮廷には、恥を知る者が一人もおらんと見える。――クラウス、お帰りだ。国境まで、丁重に、お送りしろ」
「はーい。丁重に、ね」
引きずられていくラングの喚き声が遠ざかると、リーゼロッテはふう、と息を吐いた。
「……第一波、というところかしら」
「だろうな。次はもう少しましな鼠が来る」
「ええ。そして最後には、頭を下げる以外に道がなくなる。それまで待ちましょう」
窓の外では、初雪が舞い始めていた。




