第18話
最初の難民が国境の橋を渡ってきたのは、冬の入り口だった。
荷車一台に家財を積んだ、五人家族。次の週には十家族。その次の週には、数えるのをやめた。オストマルクの民が、飢えと病から逃れて、続々と辺境領へ流れ込んできたのだ。
「東の穀倉が全滅したそうです。淵病みは地方都市にも広がって、王都では配給の列で毎日死人が出ていると。……皆さん口を揃えて言います。『国はもう、俺たちを見ていない』と」
難民の聞き取りを終えたヨハンナの報告に、執務室が重く沈んだ。
「受け入れの継続は可能か」
ギルベルトの問いに、クラウスが帳簿をめくった。
「今の流入速度なら、冬は越せます。春以降は倉が保ちません。それに伯、よその領は難民を国境で追い返してます。うちだけ受け入れ続ければ、流入は加速する一方ですよ」
「……そうか」
「追い返しますか、とは聞きませんけどね。あなたがそうしないのは知ってますから」
リーゼロッテは窓辺で、眼下の光景を見つめていた。城下の広場に設けられた仮設の天幕。炊き出しの列に並ぶ、見覚えのある国の訛りを話す人々。昨日、医療天幕で治療した少女は、王都のパン屋の娘だった。手を癒やされながら、少女は言った。「聖女様のうわさ、ほんとだった。追い出された聖女様が、国境のむこうで待っててくれるって」
不思議な気持ちだった。
あの国が傾いている。自分を装置として使い潰し、用済みと切り捨てた国が、報いのように枯れていく。ざまあみろ、と嗤えるはずだった。嗤う権利が、自分にはあるはずだった。
なのに、胸にあるのは鈍い痛みだけだった。
「……嗤えないのです」
夜、丘の上で、彼女はギルベルトにそう漏らした。
「あの列に並んでいるのは、私を嘲笑した貴族ではありません。畑を耕し、パンを焼き、私の顔も知らずに生きてきた人たちです。あの人たちは、私に何の罪も犯していない。むしろ――」
彼女は自分の手のひらを見た。
「私が知らずに守っていたのは、王家でも教会でもなく、あの人たちの暮らしだった。そう思うと、放っておくことは、私には」
「できない、か」
「ええ。……お人好しだと、お思いでしょう」
「思わん」
ギルベルトは即答し、それから少しだけ言葉を探した。
「だが、心配はしている。お前は自分を後回しにする癖がある。二十年もそうやって生きてきたんだ。今度は国を追われてまで、また同じ国の民を背負うのか。……お前は優しすぎる」
「優しいのではないの」
リーゼロッテは首を振った。夜風が、彼女の銀の髪を揺らした。
「私は、私が誇れる私でいたいだけ。難民を見捨てて枕を高くして眠れるほど、器用にできていないのです。それに」
彼女は悪戯っぽく目を細めた。
「これは復讐でもあるのですよ。あの国が捨てた女が、あの国の民を救っている。王家にとって、これ以上の皮肉があるかしら」
ギルベルトは、ふ、と息だけで笑った。
「……なるほどな。妃にし損ねた女に、民心ごと拾われるわけか。ざまあみろ、だ」
「まあ。あなたがそんな言葉を使うなんて」
翌日から、辺境領の難民対策は本格化した。リーゼロッテは淵病みの治療法を確立して医療天幕の先頭に立ち、ギルベルトは森を拓いて開墾地を難民に割り当てた。働く場と治療を得た難民たちは、やがて口々に言うようになった。
あの御方は、俺たちの国が捨てた宝だ、と。
その評判が国境を越えて祖国に流れ込むのに、大した時間はかからなかった。飢えた国で、その名は希望と皮肉の両方を帯びて囁かれ始めていた。




