幼馴染のそんな理由。 (5)
閉じられた扉を開いたそこで、少女がくず折れるように泣いていた。
「……椿がいなくなったって、聞いたけど」
どこか冷徹になる心で、自分を潤んだ瞳で見上げる少女に問う。
「……っ、ごめんなさい、梓様」
求めた回答を得られないことに、梓の眉間に皺が刻まれる。
その部屋は、椿が閉じ込められていた場所だった。見回せば、梓が贈った本が何冊も置かれている。読み古した証に、よれた本の端を見て安堵しながらも切なく思う。
(何回も読んでくれたんだ)
椿は、梓の前で本を繰ることはなかった。だから、彼女が読んで、外界を知ってくれたかわからないままだったのだ。
梓は扉にかけられていた鍵へと指で触れ、目を閉じる。
(魔力の残骸は、ない)
再び目を開いた時、少女、こと柳は震える声でまた呟く。
「ごめん、なさい……」
はらはらと涙を流す姿は、可憐だった。長い睫毛は伏せられ、そんな彼女に魅了される男は多いだろうと察しながらも、冷笑をもらす。
「――それは、見張りの役目を果たさなかったことへの謝罪?」
やんわりと尋ねれば、柳は肩をビクリと震わせた。心持、梓の口角が持ち上がる。
「――それとも、椿を故意に逃がしたことへの謝罪?」
「……梓、様?」
「気づかないとでも思った? 鍵を開けるのに魔法を使われた形跡はない。つまりは、誰かに攫われた可能性はほぼない。椿はそこまでの魔法をまだ使えないだろうし、鍵は君が持っている筈だから」
嘆息するかのように語った後――梓は目を細めて柳を見下した。
「何を、したの?」
ごくり、と緊張と威圧感に息を呑んだ柳が顔を歪める。梓の確信している瞳を見て、視線を逸らした。
「――……鍵を、開けて……椿を監視する魔法を錯乱させた。あと……箒と少しのお金を渡したわ」
弱弱しく零すと、それをきっかけにして心の箍が外れたのか、堪えていたすべてを吐き出すように思いのたけを口にした。
柳からではなく、椿から「私が邪魔なら力を貸して」と条件を突きつけたこと。見合いの姿絵を一目見た時からずっと、梓に恋していたこと。梓はいつだって椿しか見ていなかったこと。椿を妾にしたら、きっと正妻は迎えないだろう、と悟っていたこと。
気持ちを余すことなく吐露し、柳の心にやっとゆとりが持てた頃――嗚咽をもらす彼女に、心底驚いた、という声音が降ってきた。
「――へぇ、驚いたな。俺が正妻を迎えるつもりがないって、気づいてたんだ」
次いで、それは嗤いを含んだ声へと変わる。
「――椿がいなくなれば、俺が君を娶るって思ったんだ」
姿絵の中の、穏やかな雰囲気を纏った梓とは違う声。椿と共にいる時の、愛おしむような甘い声とも違う。
知っていると思っていたものが、実はなにも知らなかったと気づいた時に感じる、えも言われぬ恐怖に背筋に冷たいものが走る。そんな柳がゆっくりと視線をあげた、そこで。
梓は見たこともない笑みを浮かべていた。
それが、心も体も凍りつくような嘲笑であることに柳が気づいたのは、彼が踵を返した後だった。
*** *** ***
椿の部屋から立ち去った梓は、村の出入り口となる門へと直行した。
深呼吸し、意識を研ぎ澄ませて、魔法の残り香を探す。
過去に使用された魔法を嗅ぎ取るのは、精神をひどく疲弊させる。例えるなら、雑音の中、小さな虫の羽音を探り当てるようなものなのだ。
やがて見つけた魔力の欠片。
「……異母兄さん、か」
感じ取った魔法の残り香に含まれるのは、異母兄の魔力だった。
(そういうことか)
梓の中で、納得が生まれる。
そもそも、おかしいと思ったのだ。
外界から入ることの難しい村で、椿の脱出を手助けする部外者がいるとは思えない。椿は、外界との接触どころか、軟禁状態に置かれてすらいたのだから。ならば、必然的に村の誰かが椿を手引きした、ということだ。椿がそのことに気づいているかはわからないけれども。
椿が姿を消した、という情報は、しばらく経ってから梓にもたらされた。それは、妾として梓の家に入る椿の準備に、彼女の両親も梓の家族も皆、忙しかったから。慌しいその場所は人目につく。しかし、椿が逃げる姿を目撃した情報はどこにもなかった。柳は椿を監視する魔法を攪乱させたと言っていたが、掻い潜らねばならないのは、監視だけではない。人目も、だ。
つまり、柳以外の誰かが、逃げる椿を目撃させないよう――彼女がいなくなったという事実の漏洩を遅れさせようとしたとしか考えられなかった。
梓ははじめ、柳が魔法でそうしたのかと思った。けれど、彼女の魔法はまだそこまで至らない。
ともすれば――。
梓は瞑目し、集中する。魔力を最大限に活用し、彼女の――椿の気配を辿る。
脳裏に椿の像らしきものが浮かぼうとする度に、まるで霧がかかるように妨害が入った。
(異母兄さんの魔法か)
苛立ちを奥歯に力を込めることでやり過ごす。こめかみから汗が伝った。
――魔力は、異母兄よりも梓の方が上だ。ゆえに、梓が次期当主有力候補とされた。
つまり――この力比べのような妨害に、梓が手間取りはしても屈することはない。
(――みえた)
瞬間、目を開けると、視界の端に息切れをした異母兄が映りこんでいた。
「さすが、梓サマですね」
皮肉交じりな、それでいてどこか諦めたように彼は呟く。
「……なぜ、邪魔をするんです」
逃げ道を許さぬ問いかけをすれば、異母兄は寂しそうに嗤う。
「あなたは、恵まれている。きっと、あなたが思っている以上に。私の欲しいものすべて持っているんです。だから――奪ってやりたくなった。……一つくらい、いいでしょう?」
梓の手が、握られる。血色を失うほどに強く力がこめられたそれは、平静を装うために必要な行為だった。
「それが、椿、ですか」
吐き捨てるように反駁すれば、異母兄は目を細めた。
「――それに、彼女が哀れだった。あなたは残酷な人だ。彼女に外界という夢を持たせて、そのくせ閉じ込める。あなたの行いはまるで、鳥に広い空を見せつけながらも鳥籠から放たないそれだ。……だから、彼女に手を貸した」
それは、思ってもみない言葉だった。
梓は驚愕に目を見開く。紫の瞳は、動揺に彩られる。
……風に、灰茶の髪が靡いた。
*** *** ***
それからしばらく、梓は思考に沈む。
気がつけば、椿が去ってから季節は巡っていた。
時間が流れてなおも、異母兄の言葉は心に深く沈殿し、蠢いていた。
「……椿」
椿がいなくなって、異母兄から椿を哀れむ言葉を聞いて……梓は目の前に靄がかかったかのように自分の信じていた道を見失った。
今まで基準にしていたものは、なんだったのか。自分の願いはどれだけ傲慢で残酷だったのか。――言われるまで、気づかなかった。
梓は、生まれてこのかたずっと権力者側の人間だったのだ。ゆえに、いつしか権力者の視点でしか、物事を測れなくなっていた。
――椿の居場所を魔法によって追跡すれば、彼女は転々と街を放浪していることを知る。
彼女は、手紙が届くその前に。追っ手がくる、その前に。再び囚われるその前に、逃げているのだ。これではまるで……。
(まるで、逃亡犯だ)
そして。
(そうさせているのは……俺だ)
もう、わかっている。わかっている、けれど。
――椿に幸せでいてほしいと思う傍らで、彼女を求める自分がいた。
どうしてこうも、彼女の幸せと自分の幸せは重ならないのだろうか。
その歪みは、時間の経過と共に大きくなっていった。
やがて、影を潜めていた狂気が、梓に囁く。
――椿が村を出たのなら、これで正妻にできるのではないか、と。
――そのために、追いかければいいのだ、と。
愛執に狂った心で浮かべられる笑みは、その心に気がつかぬがゆえに無邪気なまま。
そうして、椿が中央入りしたことを察知すると、梓は父に何も言わず、密かに王宮へと文を飛ばす。
もちろん、中央への接触は梓だけではままならない。したがって、村長に願い出た。
長らく距離を置いていた中央。村ができてから、集落から王宮へと派遣された魔術師はいなかった。
村長はわずかに眉宇を顰めたが――梓に条件つきで中央行きを了承する。
『中央の情報を逐一横流ししなさい。――表向きは、村から勘当されたことにする』
それが、梓の父を村長が説得し、梓の中央入りを許す条件だった。
おそらく、村は長い間中央と距離をとりすぎたため、現在の情報に枯渇していたのだろう。
村長の言葉は、堂々と隠れることない諜報員になれ、という意味なのだ。危険が伴う可能性は計り知れない。
けれど、その条件に梓が断らない理由など、どこにもなかった。
村長の家から自宅へと戻ると、廊下にて異母兄と出くわした。
村長の家で滞在した時間が長かったのか、気がつけば夕食会まで近い時間になっていた。
どこか憑き物が落ちたかのような梓に、異母兄は片眉を上げる。
「梓サマ……? どこへ行ってらしたのです?」
その怪訝な眼差しに、梓はにっこりと笑った。邪気ない、微笑みで。
「――君に、当主の座をあげる」
言葉を失う異母兄に、さらに続けた。
「だから、俺の逃亡劇に付き合ってね」
*** *** ***
異母兄の手を借りて村を出た世界は、梓が教育を受けたそこよりも遥かに広かった。
椿が外界で何を経験し、何を感じたのかはわからない。
だが、再開した椿には梓が危惧していた儚さがなくなっていた。……それに、どんなに安堵しただろうか。
それでも、梓の椿を守りたいという気持ちは変わっていないし、恋情もそのまま育まれている。今度は、椿の笑む機会が一度でも多くなることを、そして椿が笑っていられる環境を隣で守ることを願っているのだ。
漆黒の長衣を翻し、梓は椿の職場である王宮図書館へと犬尻尾を振りながら向かう。
梓の職場である王宮魔術師防衛局からではかなり距離がある。それが重要度の違いによる中央からの距離だ。
図書館の扉を開けると、大量の本を積んで抱えた椿の同僚とぶつかりそうになった。
「はわわ、すみません!」と謝罪し頭を下げた同僚。拍子に、積まれた本がズザザアアア、と凄まじい音を立てて崩れる。なんといううっかり者だろう、と思う反面、村とは違う人間関係に、梓の頬が緩んだ。
(ここなら、椿はのびのびしていられるかもしれない)
どこか苦く感じながら、あわあわとまた本を積みはじめる同僚を手伝おうと手を伸ばす。
――最後の一冊を拾いあげようとした時だった。
同僚の手と梓の手が、本の上で重なる。
「…………」
「…………」
双方の脳裏によぎったのは、(ああ、よくあるベタな恋愛物語の、図書館での男女の出逢いの一場面だな)という思考だった。
だがしかし。
双方は男である。
気まずく感じながら、二人そろって手を引く。
ここで物語ならば、やはりお互いに手を引いて、頬を染めるところだが――この二人が頬を染めることはなかった。かわりに、頬を引き攣らせ、曖昧な笑みを浮かべる。
「えぇと、防衛局長さん、椿にご用ですか?」
この同僚の青年と梓は、既に顔見知りである。
図書館まで椿に会いに来る常連こと梓に、取次ぎをよくしてくれるのだ。とはいっても、写字生の下っ端の役目だから、であるが。椿と同僚であるため、そこは同僚同士日替わりで来客受付もしているらしい。
苦笑する同僚に梓が頷くと、彼は「もう帰りましたよ」と告げた。
「……冷たいなぁ」
落ち込むと、梓の犬尻尾が見事に反映され、しょんぼりと垂れる。
同情を禁じえないその姿に、同僚が目頭を抑え、天を仰いだ。
それにも気づかず溜息をつこうとした梓だったが――思いついた問いをかわりに口にする。
「……椿は、笑ってる?」
どこか、ぎこちない言葉になってしまったかもしれない。
そっと同僚を窺い見れば、彼はあっけらかんと答えた。
「怒ったり笑ったりしてますよ。新人だった頃はお互い初々しかったんですけどねー……最近ではちょっと汚れ……いえ、荒んで……いやいや、ちょっと疲れが溜まることもありまして、舌打ちを習得しました」
素直に喜んでいいのか困る言葉だが、梓は迷いなく微笑んだ。
「いいなぁ。俺も見たいな」
犬尻尾が左右に振られ、優しい笑みを浮かべている彼に、同僚はじーんと胸を打たれた。
そんな彼がそっと懐から取り出したのは、一つの飴玉の入った包み。それを、梓に渡す。
「防衛局長さん、これ、椿からの貰いもんです。たまーに飴玉、写字生みんなに配るんですよ。がんばった自分へのご褒美のついで、らしいんですけどね。防衛局長さんも、いつもがんばってますしね。それ、あげます。んじゃあ、仕事に戻りますね」
そう言い残し、彼は積まれた本を抱えて去っていった。
目を丸くする梓を残して。
梓は飴玉に視線を落とし、幼い頃を思いだす。
――椿は、幼い日に梓と魔法の練習をしたことを、思い出にしてくれているのだろうか。たびたび”ご褒美”と称して、梓が椿に渡した飴玉のことを、覚えていて、くれたのだろうか……。
胸が締め付けられる感覚に、梓は顔を歪めながら、破顔した。
*** *** ***
「ただいま」
そう告げて、小さな一軒家の扉を開く。ちなみに、寄り道して購入したおみやげを背後に隠しながら。
「おかえりなさい」と言いながら、犬尻尾と犬耳は威嚇する心情を隠さないし隠そうともしないフローと、淡々と夕食の支度をしながら返答する椿。
それでも――今日は、とっておきがあるのだ。
梓はもったいぶるように椿の近くへと歩み寄る。
同時にフローの視線がより鋭くなるが、そこは気にしてはいけない。
「ねぇ、椿」
小首を傾げて目の前に立てば、眉間に皺を寄せた椿が「なに?」と答えた。そこは梓と同じように「なぁに?」と首を傾げてほしいところだが……そこは妄想という名の脳内変換でよしとする。
「おみやげ、買ってきたんだ」
隠していたおみやげを椿の目線まで持ち上げると――瞬時にして椿の目は輝いた。その漆黒の瞳の中に、細かい数多の星が見えたのは、目の錯覚というやつだろう。
「あああ梓! これっ! 今話題のお菓子屋さんの糖蜜菓子!? あの、高級な……私の給料二月分の……あれ!?」
いつもより声が高くなった椿に、梓が重々しく頷く。
「椿、甘いもの好きだったな、と思って。帰りに寄ってきたんだ」
同じ王宮勤務。されど給料は天と地ほどに違う。この格差に椿は涙を呑みつつ――しかしながら、喜んで餌付けされる。
「食べていい? いい?」
喜色満面で鼻歌まで歌う椿に、目標、こと椿の笑顔を見られた梓は蕩けるように笑みを返す。梓の尻尾も激しく高速で揺れている。
「うん。みんなで一緒にたべよ」
お菓子を皿に盛るため、庖廚へと戻っていく椿を見送りつつ、「現金だなぁ」と嬉しそうに呟く。
無言の圧力を感じてフローへと視線をやれば、彼は犬耳犬尻尾を垂らしながら、複雑そうな渋い表情をしていた。おそらく、椿の満面の笑みを見た喜びと、それを見られたのは梓のおかげ、という複雑な胸中ゆえだろう。
目が合うと、梓はフローにどや顔を返した。
ぱたぱたと、茶と菓子を持って駆けてくる椿の足音。
椿とフローと、三人の生活。
フローは間違いなく恋敵だから、梓にとっても存在が複雑ではあるけれど。
――でも、思うのだ。
(こんな生活も悪くない)と。




