言わなければならないこと
ルーカス様が目を覚ました知らせは、あっという間に砦中に広まった。
テオさんは泣きながら廊下を走り回り、エリクさんは無言で天井を見上げ、バルトさんは「スープが無駄にならずに済んだ」と言いながら目元を拭っていた。
ハンス先生の診察では、毒はほとんど抜けているという。
あと数日休めば、元通り動けるだろうと。
「嗅覚まで戻るとは、わしも思わなんだ。十年分の毒が、まとめて抜けたんだろう」
先生は眼鏡を外して目頭を押さえた。
「……あの苔は、あんたが見つけたんだ。誇っていい」
「たまたまです」
「たまたまで、名前も知らん苔を干しておく娘がおるかね」
先生は呆れたように笑った。
◇
けれど、それから三日。
ルーカス様は、どこか様子がおかしかった。
お茶を運んでいくと、ありがとう、と受け取ってくれる。
いつも通り、丁寧に。いつも通り、穏やかに。
ただ——目が合うと、そっと逸らされる。
カップを渡す時、指が触れないように気をつけているのがわかる。
私が部屋に入ると、窓を少しだけ開ける。
……何か、しただろうか。
看病の間、勝手に手を握ってしまったことを、怒っているのだろうか。
それとも、名前で呼んでしまったことだろうか。
考えれば考えるほど、わからなくなった。
◇
四日目の夕方。
食料庫の在庫を確かめていると、扉が叩かれた。
「ミラ。今、少しいいだろうか」
ルーカス様だった。
もう騎士服に着替えている。左腕には、まだ包帯が巻かれていた。
「はい。……あの、どうぞ」
中に招き入れようとすると、ルーカス様は首を振った。
「できれば、外で。中庭のベンチに」
◇
夕暮れの中庭には、誰もいなかった。
ベンチに並んで座る。
ルーカス様は、私との間に、拳二つ分ほどの距離を空けていた。
しばらく、どちらも口を開かなかった。
冷たい風が吹いて、私は手袋をはめた手を膝の上で握った。私は何をやらかしてしまったのか。解雇になるだろうか。
「……ミラ」
ルーカス様が、静かに口を開いた。
「君に、言わなければならないことがある」
その声は、いつもより少し硬かった。
私は、膝の上の手に力を込めた。
「この数日、私の態度がおかしかったと思う。……すまない。君を避けていたわけではないんだ」
「はい」
「ただ、どう伝えればいいのか、ずっと考えていた」
ルーカス様は、まっすぐ前を向いたまま言った。
「目を覚ました時、嗅覚が戻っていた。部屋の匂いも、雪の匂いも、全部わかった。そして——」
言葉が、一度途切れる。
「君の匂いが、した」
私は、ルーカス様を見た。
「……え?」
「誰も、君の匂いを感じない。君自身も、自分には匂いがないと思っている。そうだな?」
頷く。
物心ついた時から、ずっとそうだった。母にも、父にも、誰にも。
ルーカス様は、ゆっくりとこちらを向いた。
灰色の瞳が、夕陽を受けて揺れている。
「私には、わかる。君からは、陽だまりのような匂いがする」
時が、止まったような気がした。
「獣人なら、誰でも知っていることだ。番の匂いは、番にしかわからない」
ルーカス様の声は、静かで、ひどく真剣だった。
「ミラ。君は——私の、番だ」
◇
何を言われたのか、すぐには理解できなかった。
番。
運命の相手。魂で結ばれた、たったひとり。
私には、一生縁のないものだと思っていた。
匂いのない娘は、誰にも見つけてもらえない。そう言われて、そう信じて生きてきた。
それなのに。
「……私に、匂いが」
声が震えた。
ルーカス様は、黙って頷いた。
「ずっと、なかったわけではなかったんだ。ただ、それに気づける者が——君の周りに、いなかっただけで」
目の奥が、熱くなる。
匂いがないと、何度言われただろう。
欠けた娘だと、気味が悪いと、番なしだと。
そのたびに、仕方ないと思ってきた。自分はそういうものなのだと。
でも、違った。
私は、欠けてなどいなかった。
ぽたり、と。
手袋の上に、雫が落ちた。
「……すみません。止まらなくて」
慌てて目元を拭う。
ルーカス様は何も言わず、懐からハンカチを取り出して、そっと差し出してくれた。
受け取る時、ルーカス様の指先が、ほんの少しだけ私の手袋に触れた。
彼はすぐに手を引いた。
◇
しばらくして、ようやく涙が落ち着いた頃。
ルーカス様は、もう一度口を開いた。
「ミラ。ここからが、本当に伝えたいことだ」
私は顔を上げた。
「番だとわかったからといって、君に何かを求めるつもりはない」
ルーカス様は、一言一言を確かめるように言った。
「獣人の中には、番を見つけたら、相手の気持ちも聞かずに囲い込む者もいる。番なのだから当然だと。……私は、そうはなりたくない」
拳を、膝の上で握る。
「番というのは、私側の話だ。私が君の匂いに惹かれる。それは本能で、どうしようもないことだ。だが、それは君の責任ではない。君が背負う必要のないものだ」
灰色の瞳が、まっすぐに私を見た。
「君は、君の心で選んでいい。私を選ばなくてもいい。今まで通り、この砦で働いてくれるだけでいい。もし私の存在が負担なら、王都の、信頼できる商家での働き口を探す」
「そんな……」
「黙っていることも考えた。だが、君に隠し事をしたまま、そばにいることはできなかった」
ルーカス様は、少しだけ苦しそうに笑った。
「この数日、君を避けるような真似をしたのは……君の匂いがするたびに、どうしていいかわからなくなるからだ。君の気持ちを確かめる前に、近づきすぎてはいけないと思った」
それで、窓を開けていたのか。
指が触れないように、気をつけていたのか。
自分の本能を抑えてまで、私の気持ちを守ろうとしてくれていた。
「答えは、急がない。何年かかってもいい。……それだけ、伝えたかった」
◇
夕陽が、雪原の向こうに沈んでいく。
私は、ハンカチを握りしめていた。
この人のことを、どう思っているのだろう。
尊敬している。感謝している。
倒れた時、受け止めてくれた腕の温かさを覚えている。
手袋をもらった日、二歩分だけ離されなかった手を覚えている。
目を覚まさなかった三日間、胸が潰れそうだったことを覚えている。
けれど、それが「番」に応えられるだけの気持ちなのか。
私には、まだわからなかった。
私は、匂いを感じられない。
ルーカス様が私の匂いを感じるように、私は彼の匂いを感じることができない。
それが、ひどく不公平なことのように思えた。
「……ルーカス様」
「ああ」
「正直に申し上げてもいいですか」
「聞かせてほしい」
私は、深く息を吸った。
「私には、まだ、わかりません。番というものが、どういう気持ちなのか。……ずっと、自分には関係ないと思っていたので」
ルーカス様は、黙って聞いていた。
「でも」
膝の上で、手袋の指を握る。
「ルーカス様のそばにいると、落ち着くんです。最初に会った日から、ずっと。……それが何なのか、自分でちゃんと確かめたいと思います」
顔を上げる。
ルーカス様の灰色の瞳が、少しだけ見開かれていた。
「だから——時間を、いただけますか。王都には行きません。この砦にいたいです。ここで、ちゃんと考えたいです」
しばらくの沈黙。
やがてルーカス様は、ふっと息を吐いた。
張り詰めていた肩から、少しだけ力が抜ける。
「……ありがとう」
それは、今まで聞いた中で、一番柔らかい声だった。
「待つよ。君が答えを見つけるまで」
ルーカス様は立ち上がり、私に手を差し出した。
いつもの、凍った道を渡る時のように。
「冷えてきた。中に戻ろう」
その手を取る。
立ち上がると、ルーカス様はすぐに手を離そうとして——
私は、ほんの少しだけ、指先に力を込めた。
ルーカス様が、驚いたように私を見る。
「……ちょっと……二歩分だけ…」
あの日、ルーカス様がしたように。
ルーカス様は一瞬固まり、それから、片手で口元を覆って横を向いた。
黒い狼の耳が、ほんのりと赤く染まっている。
二歩分。
それから、そっと手を離して、私たちは並んで砦の中へ歩いていった。
◇
その夜。
食料庫の机で帳簿を整えていると、テオさんが一通の手紙を持ってきた。
「ミラさん宛てだって。今日の補給馬車で届いた」
差出人の名前を見て、手が止まる。
『ロウェル商会 当主 アルベルト・ロウェル』
父の字だった。
封を切ると、短い文面が目に飛び込んでくる。
『至急、王都へ戻れ。商会の帳簿を立て直せるのは、お前しかいない』




