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匂いのない娘は、北の砦で今日も黙々と働く ~番なしと笑われた私ですが、気づけば騎士団になくてはならない存在になっていたようです~  作者: ティアナ
第一部

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9/12

言わなければならないこと

ルーカス様が目を覚ました知らせは、あっという間に砦中に広まった。


テオさんは泣きながら廊下を走り回り、エリクさんは無言で天井を見上げ、バルトさんは「スープが無駄にならずに済んだ」と言いながら目元を拭っていた。


ハンス先生の診察では、毒はほとんど抜けているという。

あと数日休めば、元通り動けるだろうと。


「嗅覚まで戻るとは、わしも思わなんだ。十年分の毒が、まとめて抜けたんだろう」


先生は眼鏡を外して目頭を押さえた。


「……あの苔は、あんたが見つけたんだ。誇っていい」

「たまたまです」

「たまたまで、名前も知らん苔を干しておく娘がおるかね」


先生は呆れたように笑った。


  ◇


けれど、それから三日。

ルーカス様は、どこか様子がおかしかった。


お茶を運んでいくと、ありがとう、と受け取ってくれる。

いつも通り、丁寧に。いつも通り、穏やかに。


ただ——目が合うと、そっと逸らされる。

カップを渡す時、指が触れないように気をつけているのがわかる。

私が部屋に入ると、窓を少しだけ開ける。


……何か、しただろうか。


看病の間、勝手に手を握ってしまったことを、怒っているのだろうか。

それとも、名前で呼んでしまったことだろうか。


考えれば考えるほど、わからなくなった。


  ◇


四日目の夕方。


食料庫の在庫を確かめていると、扉が叩かれた。


「ミラ。今、少しいいだろうか」


ルーカス様だった。

もう騎士服に着替えている。左腕には、まだ包帯が巻かれていた。


「はい。……あの、どうぞ」


中に招き入れようとすると、ルーカス様は首を振った。


「できれば、外で。中庭のベンチに」


  ◇


夕暮れの中庭には、誰もいなかった。


ベンチに並んで座る。

ルーカス様は、私との間に、拳二つ分ほどの距離を空けていた。


しばらく、どちらも口を開かなかった。


冷たい風が吹いて、私は手袋をはめた手を膝の上で握った。私は何をやらかしてしまったのか。解雇になるだろうか。


「……ミラ」


ルーカス様が、静かに口を開いた。


「君に、言わなければならないことがある」


その声は、いつもより少し硬かった。

私は、膝の上の手に力を込めた。


「この数日、私の態度がおかしかったと思う。……すまない。君を避けていたわけではないんだ」

「はい」

「ただ、どう伝えればいいのか、ずっと考えていた」


ルーカス様は、まっすぐ前を向いたまま言った。


「目を覚ました時、嗅覚が戻っていた。部屋の匂いも、雪の匂いも、全部わかった。そして——」


言葉が、一度途切れる。


「君の匂いが、した」


私は、ルーカス様を見た。


「……え?」


「誰も、君の匂いを感じない。君自身も、自分には匂いがないと思っている。そうだな?」


頷く。

物心ついた時から、ずっとそうだった。母にも、父にも、誰にも。


ルーカス様は、ゆっくりとこちらを向いた。

灰色の瞳が、夕陽を受けて揺れている。


「私には、わかる。君からは、陽だまりのような匂いがする」


時が、止まったような気がした。


「獣人なら、誰でも知っていることだ。番の匂いは、番にしかわからない」


ルーカス様の声は、静かで、ひどく真剣だった。


「ミラ。君は——私の、番だ」


  ◇


何を言われたのか、すぐには理解できなかった。


番。

運命の相手。魂で結ばれた、たったひとり。


私には、一生縁のないものだと思っていた。

匂いのない娘は、誰にも見つけてもらえない。そう言われて、そう信じて生きてきた。


それなのに。


「……私に、匂いが」


声が震えた。

ルーカス様は、黙って頷いた。


「ずっと、なかったわけではなかったんだ。ただ、それに気づける者が——君の周りに、いなかっただけで」


目の奥が、熱くなる。


匂いがないと、何度言われただろう。

欠けた娘だと、気味が悪いと、番なしだと。

そのたびに、仕方ないと思ってきた。自分はそういうものなのだと。


でも、違った。

私は、欠けてなどいなかった。


ぽたり、と。

手袋の上に、雫が落ちた。


「……すみません。止まらなくて」


慌てて目元を拭う。

ルーカス様は何も言わず、懐からハンカチを取り出して、そっと差し出してくれた。


受け取る時、ルーカス様の指先が、ほんの少しだけ私の手袋に触れた。

彼はすぐに手を引いた。


  ◇


しばらくして、ようやく涙が落ち着いた頃。

ルーカス様は、もう一度口を開いた。


「ミラ。ここからが、本当に伝えたいことだ」


私は顔を上げた。


「番だとわかったからといって、君に何かを求めるつもりはない」


ルーカス様は、一言一言を確かめるように言った。


「獣人の中には、番を見つけたら、相手の気持ちも聞かずに囲い込む者もいる。番なのだから当然だと。……私は、そうはなりたくない」


拳を、膝の上で握る。


「番というのは、私側の話だ。私が君の匂いに惹かれる。それは本能で、どうしようもないことだ。だが、それは君の責任ではない。君が背負う必要のないものだ」


灰色の瞳が、まっすぐに私を見た。


「君は、君の心で選んでいい。私を選ばなくてもいい。今まで通り、この砦で働いてくれるだけでいい。もし私の存在が負担なら、王都の、信頼できる商家での働き口を探す」

「そんな……」

「黙っていることも考えた。だが、君に隠し事をしたまま、そばにいることはできなかった」


ルーカス様は、少しだけ苦しそうに笑った。


「この数日、君を避けるような真似をしたのは……君の匂いがするたびに、どうしていいかわからなくなるからだ。君の気持ちを確かめる前に、近づきすぎてはいけないと思った」


それで、窓を開けていたのか。

指が触れないように、気をつけていたのか。


自分の本能を抑えてまで、私の気持ちを守ろうとしてくれていた。


「答えは、急がない。何年かかってもいい。……それだけ、伝えたかった」


  ◇


夕陽が、雪原の向こうに沈んでいく。


私は、ハンカチを握りしめていた。


この人のことを、どう思っているのだろう。


尊敬している。感謝している。

倒れた時、受け止めてくれた腕の温かさを覚えている。

手袋をもらった日、二歩分だけ離されなかった手を覚えている。

目を覚まさなかった三日間、胸が潰れそうだったことを覚えている。


けれど、それが「番」に応えられるだけの気持ちなのか。

私には、まだわからなかった。


私は、匂いを感じられない。

ルーカス様が私の匂いを感じるように、私は彼の匂いを感じることができない。

それが、ひどく不公平なことのように思えた。


「……ルーカス様」

「ああ」

「正直に申し上げてもいいですか」

「聞かせてほしい」


私は、深く息を吸った。


「私には、まだ、わかりません。番というものが、どういう気持ちなのか。……ずっと、自分には関係ないと思っていたので」


ルーカス様は、黙って聞いていた。


「でも」


膝の上で、手袋の指を握る。


「ルーカス様のそばにいると、落ち着くんです。最初に会った日から、ずっと。……それが何なのか、自分でちゃんと確かめたいと思います」


顔を上げる。

ルーカス様の灰色の瞳が、少しだけ見開かれていた。


「だから——時間を、いただけますか。王都には行きません。この砦にいたいです。ここで、ちゃんと考えたいです」


しばらくの沈黙。


やがてルーカス様は、ふっと息を吐いた。

張り詰めていた肩から、少しだけ力が抜ける。


「……ありがとう」


それは、今まで聞いた中で、一番柔らかい声だった。


「待つよ。君が答えを見つけるまで」


ルーカス様は立ち上がり、私に手を差し出した。

いつもの、凍った道を渡る時のように。


「冷えてきた。中に戻ろう」


その手を取る。

立ち上がると、ルーカス様はすぐに手を離そうとして——


私は、ほんの少しだけ、指先に力を込めた。


ルーカス様が、驚いたように私を見る。


「……ちょっと……二歩分だけ…」


あの日、ルーカス様がしたように。


ルーカス様は一瞬固まり、それから、片手で口元を覆って横を向いた。

黒い狼の耳が、ほんのりと赤く染まっている。


二歩分。

それから、そっと手を離して、私たちは並んで砦の中へ歩いていった。


  ◇


その夜。

食料庫の机で帳簿を整えていると、テオさんが一通の手紙を持ってきた。


「ミラさん宛てだって。今日の補給馬車で届いた」


差出人の名前を見て、手が止まる。


『ロウェル商会 当主 アルベルト・ロウェル』


父の字だった。


封を切ると、短い文面が目に飛び込んでくる。


『至急、王都へ戻れ。商会の帳簿を立て直せるのは、お前しかいない』



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