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匂いのない娘は、北の砦で今日も黙々と働く ~番なしと笑われた私ですが、気づけば騎士団になくてはならない存在になっていたようです~  作者: ティアナ
第一部

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10/14

帰る場所

父の手紙を、私は三度読み返した。


短い文面は、何度読んでも変わらなかった。

戻れ。立て直せ。お前しかいない。


お前しかいない——。


実家にいた頃、一度でもそう言ってもらえたら、私はどれほど嬉しかっただろう。

毎晩遅くまで帳簿をつけて、仕入れの時期を調べて、取引先への手紙を書いて。

それが当たり前だと思われていた。誰も、私の名前を出さなかった。


今になって、ようやく。

私がいなくなって、困ってから、ようやく。


手紙を机に置いて、私は長いこと、ぼんやりと燭台の火を見つめていた。


  ◇


翌朝。

お茶を運んでいくと、ルーカス様はすぐに私の顔を見て、ペンを置いた。


「何かあったか」


隠していたつもりだった。

けれどこの人には、すぐにわかってしまうらしい。


少し迷ってから、私は手紙を差し出した。


「読んでも、構わないのか」

「はい。……ルーカス様には、知っておいていただきたいので」


ルーカス様は手紙を受け取り、静かに目を通した。

読み終えても、しばらく何も言わなかった。


ただ、手紙を持つ指先に、わずかに力が入っているのが見えた。


「……ミラ」


やがて、ルーカス様は顔を上げた。


「君はどうしたい」


それだけだった。

行くなとも、行けとも言わない。


「私の気持ちを言えば、君には行ってほしくない。だが、それは私の都合だ」


ルーカス様は、手紙を丁寧に畳んで私に返した。


「もし君が、家族のことを放っておけないと思うなら、行けばいい。その時は、信頼できる騎士を護衛につける。帰ってきたくなったら、いつでも迎えに行く」

「……もし、行かないと決めたら」

「その時は、君の決断を、私が全力で守る」


迷いのない声だった。


私は、手の中の手紙を見下ろした。


  ◇


その日、私は仕事を休ませてもらって、砦の中を歩いた。


厨房では、リタちゃんとマーサさんが昼の支度をしていた。

私が教えた通りに野菜を下ごしらえし、私が書いた献立表を見ながら鍋をかき混ぜている。


「ミラさん! 今日のスープ、味見してください!」


リタちゃんが、嬉しそうに匙を差し出してくる。

一口すすると、ちょうどいい塩加減だった。


「美味しい。もう、私より上手ね」

「えへへ、本当ですか!」


洗濯場では、当番の騎士たちが包帯を煮沸していた。

誰に言われるでもなく、仕分けの箱を使い、干す場所を守っている。


医務室では、ハンス先生とノラさんが、薬草の棚を整理していた。

月影苔の箱には、先生の字で新しいラベルが貼られていた。


『月影苔 ——裏の斜面、岩陰。ミラ発見』


中庭では、テオさんとエリクさんが剣の稽古をしていた。

私に気づくと、二人とも手を止めて、大きく手を振ってくれた。


食料庫の扉には、まだあの日の紙が残っていた。

『本日、ミラの立ち入りを禁ず』

ルーカス様は剥がし忘れたのだろうか。それとも、わざと残しているのだろうか。


  ◇


夕暮れ。

私は、砦の城壁の上に立っていた。


眼下には、雪原と、遠くの村の灯り。

冷たい風が頬を撫でていく。


ここに来た時、私は何も持っていなかった。

着替えが三着と、裁縫道具と、母の鋏と、覚え書きの束。

帰る場所はないと、ルーカス様に言った。


けれど、今は。


リタちゃんのスープ。洗濯場の白い包帯。ハンス先生の書いたラベル。手を振る騎士たち。

剥がされないままの、几帳面な字の貼り紙。


全部、ここにある。


父の商会で、私は便利な道具だった。

いなくなれば困る。でも、いる間は誰も気に留めない。


ここでは、私はミラだ。


答えは、もう出ていた。


  ◇


その夜、私は父への返事を書いた。


何度も書き直した。

恨み言を書きそうになって、消した。

許しを乞うような言葉を書きそうになって、それも消した。


最後に残ったのは、短い手紙だった。


『お父様へ


お手紙を拝見しました。

申し訳ありませんが、王都へは戻りません。


私は今、北方騎士団で働いています。

ここには、私を必要としてくれる人たちがいて、私も、ここにいたいと思っています。


商会の帳簿は、もう私の仕事ではありません。

番頭のトマスさんは、長年の取引をよくご存じです。彼に任せてみてはいかがでしょうか。


どうか、お体を大切に。


ミラ』


封をして、しばらくそれを見つめていた。

不思議と、手は震えなかった。


  ◇


翌朝、手紙を持って執務室を訪ねた。


「ルーカス様。決めました」


ルーカス様は、黙って私の言葉を待っていた。


「戻りません。私は、ここにいます」


ルーカス様は、ゆっくりと目を閉じた。

それから、深く、深く息を吐いた。


「……そうか」


目を開けた時、灰色の瞳は少しだけ潤んでいるように見えた。


「ありがとう。君がそう決めてくれて、本当に嬉しい」


それから、ルーカス様は机の引き出しから、一枚の書類を取り出した。


「実は、これを用意していた。君がどちらを選んでも、渡すつもりだった」


差し出された書類を見て、私は目を瞬かせた。


『北方騎士団 主計官補佐 任命書

氏名 ミラ・ロウェル

上記の者を、北方騎士団の物資管理および会計の補佐として任命する

給金は騎士団規定に基づき——』


一番下に、ルーカス様の署名と、騎士団の印章。


「こ、これは……」

「君は下働きではなく、正式な騎士団の一員だ。王都の軍務局にも、もう届けを出してある」


ルーカス様は、少しだけ照れくさそうに続けた。


「この前の補給の件で、ギルバート補給官が監察を受けることになった。その報告書に、君の名前を書いた。物資の不正を見抜いたのは誰か、正確に記録しておくべきだと思ったからだ。……そうしたら、軍務局から、その者を正式に登用すべきだと返事が来た」


私は、書類を握りしめていた。


「もし君が王都に戻ると決めていたら、これは推薦状として使ってもらうつもりだった。どこで働くにしても、君の仕事が君の名前で認められるように」


どこに行っても。

私が、私の名前で。


「……ルーカス様は、ずるいです」

「ずるい?」

「こんなの……泣くに決まっているじゃないですか」


ルーカス様は、困ったように笑って、またハンカチを差し出してくれた。

この前借りたものを、まだ返していないのに。


「父への返事に、これのことも書き添えてもいいだろうか」


ルーカス様が、私の手紙を見ながら言った。


「君が今、騎士団に正式に所属していること。君を引き抜くなら、騎士団を通してもらう必要があること。……騎士団長として、一筆添えさせてほしい」


それは、私を守るための一筆だった。

父が、無理やり連れ戻そうとしないように。


「……お願いします」


  ◇


十日後。王都、ロウェル商会。


「戻らない、だと……!?」


父は、震える手で二通の手紙を握りしめていた。


一通は、娘の簡潔な手紙。

もう一通は、北方騎士団長ルーカス・グレイの名で書かれた、丁寧で、そして一切の隙のない公文書だった。


『ミラ・ロウェル殿は、北方騎士団主計官補佐として正式に任命されている。

本人の意思に反する召還、ならびに職務への干渉は、騎士団への妨害と見なす。

なお、先般の補給物資不足の件について、軍務局の監察が貴商会にも及ぶ予定であることを申し添える』


「監察……」


父の顔から、血の気が引いていく。


その時、応接間の扉が乱暴に開いた。


「お父様! クラウス様が……クラウス様が、婚約を考え直すって……!」


ジゼルが、泣きながら駆け込んできた。

その後ろから、硬い表情のクラウスが入ってくる。


「失礼します、ロウェル殿。……ジゼルの『番の匂い』が、香水だったことがわかりました」


クラウスの手には、空になった小さな香水瓶が握られていた。


「俺は、ジゼルの番ではなかった。最初から」

「違うの、クラウス様! だって、だってお姉様がいなくなれば、私が一番になれるって……!」


ジゼルの叫びが、応接間に響く。


父は、二通の手紙と、泣き崩れる娘と、冷たい目をした元婚約者を、呆然と見比べていた。


やがて、その目に、暗い光が宿った。


「……ミラを、連れ戻す」


低い声で、父は呟いた。


「騎士団がなんだ。あれは私の娘だ。親が娘を迎えに行って、何が悪い」

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