帰る場所
父の手紙を、私は三度読み返した。
短い文面は、何度読んでも変わらなかった。
戻れ。立て直せ。お前しかいない。
お前しかいない——。
実家にいた頃、一度でもそう言ってもらえたら、私はどれほど嬉しかっただろう。
毎晩遅くまで帳簿をつけて、仕入れの時期を調べて、取引先への手紙を書いて。
それが当たり前だと思われていた。誰も、私の名前を出さなかった。
今になって、ようやく。
私がいなくなって、困ってから、ようやく。
手紙を机に置いて、私は長いこと、ぼんやりと燭台の火を見つめていた。
◇
翌朝。
お茶を運んでいくと、ルーカス様はすぐに私の顔を見て、ペンを置いた。
「何かあったか」
隠していたつもりだった。
けれどこの人には、すぐにわかってしまうらしい。
少し迷ってから、私は手紙を差し出した。
「読んでも、構わないのか」
「はい。……ルーカス様には、知っておいていただきたいので」
ルーカス様は手紙を受け取り、静かに目を通した。
読み終えても、しばらく何も言わなかった。
ただ、手紙を持つ指先に、わずかに力が入っているのが見えた。
「……ミラ」
やがて、ルーカス様は顔を上げた。
「君はどうしたい」
それだけだった。
行くなとも、行けとも言わない。
「私の気持ちを言えば、君には行ってほしくない。だが、それは私の都合だ」
ルーカス様は、手紙を丁寧に畳んで私に返した。
「もし君が、家族のことを放っておけないと思うなら、行けばいい。その時は、信頼できる騎士を護衛につける。帰ってきたくなったら、いつでも迎えに行く」
「……もし、行かないと決めたら」
「その時は、君の決断を、私が全力で守る」
迷いのない声だった。
私は、手の中の手紙を見下ろした。
◇
その日、私は仕事を休ませてもらって、砦の中を歩いた。
厨房では、リタちゃんとマーサさんが昼の支度をしていた。
私が教えた通りに野菜を下ごしらえし、私が書いた献立表を見ながら鍋をかき混ぜている。
「ミラさん! 今日のスープ、味見してください!」
リタちゃんが、嬉しそうに匙を差し出してくる。
一口すすると、ちょうどいい塩加減だった。
「美味しい。もう、私より上手ね」
「えへへ、本当ですか!」
洗濯場では、当番の騎士たちが包帯を煮沸していた。
誰に言われるでもなく、仕分けの箱を使い、干す場所を守っている。
医務室では、ハンス先生とノラさんが、薬草の棚を整理していた。
月影苔の箱には、先生の字で新しいラベルが貼られていた。
『月影苔 ——裏の斜面、岩陰。ミラ発見』
中庭では、テオさんとエリクさんが剣の稽古をしていた。
私に気づくと、二人とも手を止めて、大きく手を振ってくれた。
食料庫の扉には、まだあの日の紙が残っていた。
『本日、ミラの立ち入りを禁ず』
ルーカス様は剥がし忘れたのだろうか。それとも、わざと残しているのだろうか。
◇
夕暮れ。
私は、砦の城壁の上に立っていた。
眼下には、雪原と、遠くの村の灯り。
冷たい風が頬を撫でていく。
ここに来た時、私は何も持っていなかった。
着替えが三着と、裁縫道具と、母の鋏と、覚え書きの束。
帰る場所はないと、ルーカス様に言った。
けれど、今は。
リタちゃんのスープ。洗濯場の白い包帯。ハンス先生の書いたラベル。手を振る騎士たち。
剥がされないままの、几帳面な字の貼り紙。
全部、ここにある。
父の商会で、私は便利な道具だった。
いなくなれば困る。でも、いる間は誰も気に留めない。
ここでは、私はミラだ。
答えは、もう出ていた。
◇
その夜、私は父への返事を書いた。
何度も書き直した。
恨み言を書きそうになって、消した。
許しを乞うような言葉を書きそうになって、それも消した。
最後に残ったのは、短い手紙だった。
『お父様へ
お手紙を拝見しました。
申し訳ありませんが、王都へは戻りません。
私は今、北方騎士団で働いています。
ここには、私を必要としてくれる人たちがいて、私も、ここにいたいと思っています。
商会の帳簿は、もう私の仕事ではありません。
番頭のトマスさんは、長年の取引をよくご存じです。彼に任せてみてはいかがでしょうか。
どうか、お体を大切に。
ミラ』
封をして、しばらくそれを見つめていた。
不思議と、手は震えなかった。
◇
翌朝、手紙を持って執務室を訪ねた。
「ルーカス様。決めました」
ルーカス様は、黙って私の言葉を待っていた。
「戻りません。私は、ここにいます」
ルーカス様は、ゆっくりと目を閉じた。
それから、深く、深く息を吐いた。
「……そうか」
目を開けた時、灰色の瞳は少しだけ潤んでいるように見えた。
「ありがとう。君がそう決めてくれて、本当に嬉しい」
それから、ルーカス様は机の引き出しから、一枚の書類を取り出した。
「実は、これを用意していた。君がどちらを選んでも、渡すつもりだった」
差し出された書類を見て、私は目を瞬かせた。
『北方騎士団 主計官補佐 任命書
氏名 ミラ・ロウェル
上記の者を、北方騎士団の物資管理および会計の補佐として任命する
給金は騎士団規定に基づき——』
一番下に、ルーカス様の署名と、騎士団の印章。
「こ、これは……」
「君は下働きではなく、正式な騎士団の一員だ。王都の軍務局にも、もう届けを出してある」
ルーカス様は、少しだけ照れくさそうに続けた。
「この前の補給の件で、ギルバート補給官が監察を受けることになった。その報告書に、君の名前を書いた。物資の不正を見抜いたのは誰か、正確に記録しておくべきだと思ったからだ。……そうしたら、軍務局から、その者を正式に登用すべきだと返事が来た」
私は、書類を握りしめていた。
「もし君が王都に戻ると決めていたら、これは推薦状として使ってもらうつもりだった。どこで働くにしても、君の仕事が君の名前で認められるように」
どこに行っても。
私が、私の名前で。
「……ルーカス様は、ずるいです」
「ずるい?」
「こんなの……泣くに決まっているじゃないですか」
ルーカス様は、困ったように笑って、またハンカチを差し出してくれた。
この前借りたものを、まだ返していないのに。
「父への返事に、これのことも書き添えてもいいだろうか」
ルーカス様が、私の手紙を見ながら言った。
「君が今、騎士団に正式に所属していること。君を引き抜くなら、騎士団を通してもらう必要があること。……騎士団長として、一筆添えさせてほしい」
それは、私を守るための一筆だった。
父が、無理やり連れ戻そうとしないように。
「……お願いします」
◇
十日後。王都、ロウェル商会。
「戻らない、だと……!?」
父は、震える手で二通の手紙を握りしめていた。
一通は、娘の簡潔な手紙。
もう一通は、北方騎士団長ルーカス・グレイの名で書かれた、丁寧で、そして一切の隙のない公文書だった。
『ミラ・ロウェル殿は、北方騎士団主計官補佐として正式に任命されている。
本人の意思に反する召還、ならびに職務への干渉は、騎士団への妨害と見なす。
なお、先般の補給物資不足の件について、軍務局の監察が貴商会にも及ぶ予定であることを申し添える』
「監察……」
父の顔から、血の気が引いていく。
その時、応接間の扉が乱暴に開いた。
「お父様! クラウス様が……クラウス様が、婚約を考え直すって……!」
ジゼルが、泣きながら駆け込んできた。
その後ろから、硬い表情のクラウスが入ってくる。
「失礼します、ロウェル殿。……ジゼルの『番の匂い』が、香水だったことがわかりました」
クラウスの手には、空になった小さな香水瓶が握られていた。
「俺は、ジゼルの番ではなかった。最初から」
「違うの、クラウス様! だって、だってお姉様がいなくなれば、私が一番になれるって……!」
ジゼルの叫びが、応接間に響く。
父は、二通の手紙と、泣き崩れる娘と、冷たい目をした元婚約者を、呆然と見比べていた。
やがて、その目に、暗い光が宿った。
「……ミラを、連れ戻す」
低い声で、父は呟いた。
「騎士団がなんだ。あれは私の娘だ。親が娘を迎えに行って、何が悪い」




