北へ向かう馬車
主計官補佐になって、私の仕事は少しだけ変わった。
食料庫の管理に加えて、騎士団の会計帳簿を見るようになった。
補給物資の目録、騎士たちへの給金、装備の修繕費、村への見舞金。
ルーカス様が一人で抱えていた書類の山を、半分引き受けた形だ。
「……団長、これ、三年前から計算が合っていません」
「本当か」
「ここの修繕費、同じ請求が二重に計上されています。たぶん、前任の方が写し間違えて……」
ルーカス様は帳簿を覗き込み、額を押さえた。
「私は剣を振るのは得意だが、数字はどうにも……すまない」
「いえ。ルーカス様が苦手なことを、私がやればいいだけですから」
そう言うと、ルーカス様は少しだけ目を見開いて、それから柔らかく笑った。
「頼りにしている」
その一言が、なんだか妙にくすぐったかった。
◇
ただし、仕事の時間はきっちり決められていた。
朝の鐘から、夕方の鐘まで。
それ以降に食料庫や執務室で帳簿を開いていると、どこからともなく誰かがやってくる。
「ミラさん、時間です」
「ミラさん、もう鐘鳴りましたよ」
「ミラ。……約束だろう」
最後のは、ルーカス様だった。
困ったように眉を下げて、扉の前に立っている。
その顔を見ると、なぜか逆らえない。
「……はい。片付けます」
「手伝おう」
二人で帳簿を棚に戻す。
ふと手が触れそうになって、ルーカス様がさっと手を引いた。
あの日から、ルーカス様は変わらなかった。
丁寧で、穏やかで、優しい。
けれど、決して近づきすぎない。
私の答えを、待ってくれている。
◇
休日の午後。
私は、医務室でハンス先生とお茶を飲んでいた。
「番、ねえ」
先生は、湯気の立つカップを両手で包みながら言った。
「わしは梟だから、狼ほど鼻は利かん。だが、番を見つけた連中は大勢見てきたよ」
「どんな感じなのでしょう。……番を見つけるというのは」
「人によるね。雷に打たれたようだと言う者もおる。ずっと前から知っていた気がすると言う者もおる」
先生は、眼鏡越しに私を見た。
「あんたは、団長の匂いがわからんのだったね」
「……はい」
それが、ずっと引っかかっていた。
ルーカス様は、私の匂いを感じる。
けれど私には、何もわからない。
それでは、私はルーカス様の番ではないのではないか。片方だけの、不完全な何かなのではないか。
「ミラさん」
先生は、静かにカップを置いた。
「匂いというのは、鼻で嗅ぐものだけじゃない」
「……?」
「あんたは、団長のそばにいると落ち着くと言っていたね。それはいつからだい」
最初に会った日から。
冷たい執務室で、殿、と呼ばれた時から。
「わしの見立てだがね。あんたの匂いが、他の者にわからんのと同じだよ。あんたの『鼻』は、たぶん少し変わった形をしとる」
先生は、皺だらけの顔で笑った。
「急がんでいい。団長も、急げとは言っとらんだろう?」
◇
その夜。
私は部屋で、毛糸と編み棒を手にしていた。
村の市で買った、深い紺色の毛糸。
ルーカス様が、あの休日に着ていた上着と同じ色。
手袋をもらったお返しを、ずっとしたかった。
襟巻きなら、冬の見回りで使ってもらえるかもしれない。
一目、一目、編んでいく。
この気持ちに、名前があるのかはわからない。
番なのかどうかも、わからない。
けれど、この襟巻きを編んでいる時間は、とても温かかった。
◇
同じ頃。
北へ向かう街道を、一台の馬車が走っていた。
「寒いわ! お父様、まだ着かないの!?」
毛皮に包まったジゼルが、窓の外の雪景色を睨みつけていた。
「あと三日だ。我慢しろ」
「三日も!? こんな田舎、来たくなかったわ。なんで私まで……」
「お前がミラを説得するんだ。姉妹だろう」
父は、苛立たしげに膝を揺らしていた。
商会の取引先は、次々と離れていった。
北方騎士団との契約は打ち切られ、軍務局の監察官が帳簿を調べに来た。
番頭のトマスは「お嬢様の帳簿でなければ、私にもわかりません」と頭を下げるばかり。
ミラさえ戻れば。
ミラさえ戻れば、すべて元通りになる。
「あの子は昔から、言えば何でも聞いた。顔を見れば、すぐに折れる」
父の呟きに、ジゼルは不満げに唇を尖らせた。
「……お姉様のくせに、騎士団なんかに取り入って」
◇
その馬車から、半日ほど遅れて。
一頭の馬が、同じ街道を北へ進んでいた。
乗っているのは、狐獣人の青年だった。
クラウスは、手綱を握りしめていた。
ジゼルとの婚約は、正式に解消した。
香水の匂いを番だと思い込み、婚約者を捨てた愚か者——王都の商人仲間からは、そう陰口を叩かれている。
それはいい。自業自得だ。
だが、ロウェル殿がミラを連れ戻しに行くと聞いて、居ても立ってもいられなくなった。
「……今さら、何を言えるわけでもないが」
婚約していた三年間、ミラは一度も文句を言わなかった。
自分の誕生日を祝う手紙を、毎年欠かさず送ってきた。
自分は一度も、返事を書かなかった。
匂いのない娘だから。
番にはなれないから。
そう言い訳して、まともに向き合ったことがなかった。
せめて、謝りたかった。
クラウスは、馬の腹を軽く蹴った。
◇
三日後の朝。
襟巻きは、ようやく編み上がった。
少しだけ目が不揃いなところがあるけれど、初めてにしては上出来だと思う。
紙で丁寧に包んで、胸に抱えて、執務室へ向かう。
扉を叩こうとした、その時。
「団長!」
廊下の向こうから、テオさんが駆けてきた。
息を切らして、執務室の扉を叩く。
「失礼します! 門に、王都からの馬車が……!」
扉が開いて、ルーカス様が顔を出した。
私と目が合い、それからテオさんを見る。
「客か」
「はい。ロウェル商会の当主と名乗っています。……ミラさんを出せ、と」
胸に抱えた包みを、ぎゅっと握りしめた。
ルーカス様の灰色の瞳が、すっと細くなる。
いつもの穏やかさが消えて、あの魔獣の夜と同じ、鋭い光が宿った。
けれど次の瞬間、ルーカス様は私のほうを向いた。
声は、いつも通り柔らかかった。
「ミラ。会うか、会わないか。君が決めていい」
私は、息を吸った。
震えそうになる手を、もう片方の手で押さえる。
逃げることもできる。
ルーカス様は、きっと私の代わりに追い返してくれる。
でも。
「……会います」
顔を上げた。
「自分の口で、ちゃんと伝えたいです」
ルーカス様は、しばらく私を見つめていた。
それから、ゆっくりと頷いた。
「わかった。——私も、隣にいていいか」
「……はい。お願いします」
ルーカス様が、私に手を差し出した。
凍った道を渡る時と同じように。
私は、包みを片腕に抱え直して、その手を取った。
今度は、ルーカス様は手を離さなかった。




