ざまぁ、ではなく
応接室の扉の前で、私は一度だけ深く息を吸った。
隣に、ルーカス様がいる。
繋いだ手は、温かかった。
「行こう」
「……はい」
扉が開く。
◇
応接室の長椅子に、父と、ジゼルが座っていた。
父は、少し痩せたように見えた。
上等な外套の袖口が、ほつれている。以前なら、すぐに仕立て屋を呼んでいたはずなのに。
ジゼルは、私を見るなり目を見開いた。
それから、繋がれた手に視線を落として、唇を歪める。
「……ミラ」
父が立ち上がった。
「迎えに来た。帰るぞ」
挨拶も、久しぶりの一言もなかった。
まるで、昨日の続きのように。
私は、ルーカス様の手をそっと離した。
一歩、前に出る。
「お父様。お手紙で、お返事を差し上げたはずです」
「あんなものは返事ではない。お前は騙されているんだ」
父は、ルーカス様を一瞥した。
「騎士団の帳簿係など、お前のような娘のする仕事ではない。商会に戻れば、お前の居場所はちゃんとある」
「……居場所」
その言葉を、口の中で転がす。
「私の居場所は、事務所の奥の、一番暗い机でしたね。灯りの油も、自分で買っていました」
「それは……」
「帳簿をつけても、取引先に私の名前が出ることはありませんでした。全部、お父様のお手柄でした」
声は、思ったより震えなかった。
「それを、恨んでいるわけではありません。ただ私はもう、あの机には戻りたくないんです」
◇
「何よ、偉そうに!」
ジゼルが、長椅子から立ち上がった。
「お姉様のせいで、私がどれだけ恥をかいたと思ってるの! クラウス様には捨てられるし、王都じゃ笑い者だし……!」
「ジゼル、それはお前が——」
「お父様は黙ってて!」
ジゼルは、私を睨みつけた。
「騎士団長様に取り入ったって、無駄よ。匂いのない女なんて、誰も本気で相手にしないんだから。どうせ便利に使われてるだけで——」
「失礼」
静かな声が、ジゼルの言葉を遮った。
ルーカス様だった。
声を荒らげたわけではない。けれど、部屋の空気が、ぴんと張り詰めた。
「彼女は、北方騎士団の主計官補佐だ。私の部下であり、この砦の誰もが信頼を寄せる人だ」
灰色の瞳が、ジゼルをまっすぐに見据える。
「彼女を侮辱することは、騎士団を侮辱することと同じだ。どうか、言葉を選んでいただきたい」
ジゼルは、ぱくぱくと口を動かして、何も言えなくなった。
ルーカス様は、それ以上何も言わなかった。
番のことも。私の匂いのことも。
それは、私が決めることだから。
この人は、そう思ってくれているのだ。
◇
「……ミラ」
父が、声を低くした。
「お前は、親を見捨てるのか」
その言葉に、胸がずきりと痛んだ。
「商会は、このままでは潰れる。従業員も路頭に迷う。お前一人が戻れば、それで済む話だ」
一人が戻れば、済む話。
ずっと、そうだった。
私一人が我慢すれば。私一人が黙っていれば。私一人が働けば。
「来い」
父が、私の腕を掴んだ。
ぐい、と引かれる。
足がよろけて——
その手首を、大きな手が掴んだ。
「ロウェル殿」
ルーカス様だった。
父の手首を掴んだまま、静かに言う。
「彼女は今、ここにいたいと言っている。その意思を、力で曲げることは認められない」
「他人が口を出すな! これは親子の問題だ!」
「ならば、親として、娘の言葉を、最後まで聞いてやってはもらえないだろうか」
父の顔が、怒りで赤く染まる。
その時。
「ロウェル殿。もう、やめましょう」
応接室の扉が開いて、一人の青年が入ってきた。
旅の汚れがついた外套。狐の耳。
「……クラウス様?」
◇
クラウス様は、私を見て、少しだけ顔を歪めた。
それから、父に向き直る。
「王都を出る前に、軍務局の監察官と話してきました。補給物資の件、ギルバート補給官との取引の記録が、すべて押さえられたそうです」
父の手から、力が抜けた。
「商会の免許は、一時停止になるでしょう。……ミラを連れて帰っても、もう帳簿でどうにかなる段階ではありません」
「そ、そんな……」
父は、よろよろと長椅子に座り込んだ。
クラウス様は、それから私の前に立った。
深く、深く頭を下げる。
「ミラ。すまなかった」
私は、目を瞬かせた。
「三年間、俺は君と向き合わなかった。匂いがないことを言い訳にして、君がくれた手紙に一度も返事を書かなかった。……ジゼルの香水に騙されたのも、結局は、俺が楽なほうに逃げたからだ」
顔を上げたクラウス様は、ひどく疲れた顔をしていた。
「許してくれとは言わない。ただ、謝りたかった。それだけだ」
私は、しばらく黙ってクラウス様を見つめていた。
この人を、恨んだことはあっただろうか。
婚約を解消された時、悲しかっただろうか。
……正直に言えば、あまり覚えていない。
あの頃の私は、悲しむことすら、仕方ないと諦めていたから。
「謝罪は、受け取ります」
私は、静かに言った。
「でも、もういいんです。私は今、ここで幸せですから」
クラウス様は、少しだけ目を見開いた。
それから、ほんのわずかに笑った。苦い、けれどどこか安堵したような笑み。
「……そうか。よかった」
◇
私は、長椅子に座り込んだ父の前に膝をついた。
父は、私を見なかった。
床の一点を、ぼんやりと見つめている。
「お父様」
返事はない。
「私は、お父様を恨んでいません。……恨むほど、強くなかったので」
父の肩が、わずかに揺れた。
「でも、戻りません。私がいなくても回る商会を作れなかったのは、私のせいではありません」
酷いことを言っているのかもしれない。
けれど、これだけは言わなければならなかった。
「トマスさんは、誠実な人です。一から、やり直してください。……お母様の残した商会ですから」
父が、ゆっくりと顔を上げた。
その目に、初めて、私が映っている気がした。
「……お前は」
掠れた声。
「お前は、そんなに……母親に似ていたか」
それが、父が私にくれた、初めての言葉らしい言葉だった。
謝罪ではない。礼でもない。
けれど、それでもいいと思った。
◇
父とジゼルは、その日のうちに砦を発った。
ジゼルは最後まで私を睨んでいたけれど、門をくぐる時、一度だけ振り返った。
何か言いたげに唇が動いて、結局、何も言わずに馬車に乗り込んだ。
クラウス様は、別れ際にもう一度だけ頭を下げた。
「グレイ団長。……ミラを、頼みます」
ルーカス様は、少し考えてから、静かに答えた。
「それは、彼女が決めることだ」
クラウス様は目を瞬かせ、それから、ふっと笑った。
「……なるほど。かなわないな」
馬車と馬が、雪原の向こうへ小さくなっていく。
私は、城門の上から、それをずっと見送っていた。
◇
夕暮れ。
城壁の上には、私とルーカス様だけが残っていた。
「……大丈夫か」
「はい」
不思議なくらい、心は静かだった。
長い間、背負っていた荷物を、ようやく下ろせた気がする。
重かったことにすら、気づいていなかった荷物を。
「ルーカス様。一つ、お聞きしてもいいですか」
「ああ」
「さっき……番のこと、言いませんでしたね」
ルーカス様は、少しだけ目を伏せた。
「あれを言えば、きっと話は早かった。ジゼル殿も黙っただろう」
「はい」
「だが、それは君の盾に、私の都合を使うことになる。……君は、君の言葉で戦っていた。私が横から奪っていいものではなかった」
この人は、どこまでも。
私は、胸に抱えていた包みを、そっと差し出した。
「これ。……受け取っていただけますか」
ルーカス様が、目を瞬かせる。
包みを開くと、深い紺色の襟巻きが現れた。
「手袋の、お返しです。少し、目が揃っていないところがあるんですけど」
ルーカス様は、しばらく何も言わずに襟巻きを見つめていた。
指先で、そっと毛糸を撫でる。
「……君が、編んだのか」
「はい。休日に」
ルーカス様が、何かをこらえるように唇を引き結んだ。
「つけても、いいだろうか」
「……私が、巻いてもいいですか」
自分でも、なぜそんなことを言ったのかわからなかった。
ルーカス様は一瞬固まり、それから、ゆっくりと身を屈めた。
私の背丈に合わせるように。
襟巻きを、彼の首にかける。
くるりと一周させて、端を整える。
その時。
ふわり、と。
何かが、鼻をかすめた。
雪解けの水のような。
深い森の、朝の空気のような。
冷たくて、静かで——けれど、その奥に、確かな温もりがある。
私は、手を止めた。
「……ミラ?」
ルーカス様の声が、すぐ近くで聞こえる。
もう一度、息を吸う。
間違いない。生まれて初めて、私は——誰かの匂いを、感じていた。
「ルーカス様」
声が、震えた。
「……森の、匂いがします」
ルーカス様の灰色の瞳が、大きく見開かれた。
「雪解けの、森の匂い。……ルーカス様から」
ハンス先生の言葉が、耳の奥で蘇る。
あんたの『鼻』は、たぶん少し変わった形をしとる。
ずっと、閉じていたのだ。
匂いのない娘として、誰にも見つけてもらえないと諦めて。
自分の心ごと、固く閉じていた。
それが、今——ようやく、開いた。
ルーカス様は、何も言わなかった。
ただ、震える手を伸ばしかけて——途中で、止めた。
触れていいのか、迷うように。
私は、その手を、自分から取った。
「まだ、答えの途中です」
涙が、頬を伝っていく。
けれど、悲しい涙ではなかった。
「でも……答えは、たぶん、もうすぐです」
ルーカス様は、私の手を、壊れ物に触れるようにそっと握り返した。
紺色の襟巻きに顔を半分埋めて、彼は小さく笑った。
今まで見た中で、一番、幸せそうな顔で。
「待っているよ。……いつまでも」
夕陽が、雪原を金色に染めていた。
北の砦の城壁の上。
匂いのない娘と、匂いを失った騎士は、ようやく互いの匂いを見つけた。




