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匂いのない娘は、北の砦で今日も黙々と働く ~番なしと笑われた私ですが、気づけば騎士団になくてはならない存在になっていたようです~  作者: ティアナ
第一部

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12/14

ざまぁ、ではなく

応接室の扉の前で、私は一度だけ深く息を吸った。


隣に、ルーカス様がいる。

繋いだ手は、温かかった。


「行こう」

「……はい」


扉が開く。


  ◇


応接室の長椅子に、父と、ジゼルが座っていた。


父は、少し痩せたように見えた。

上等な外套の袖口が、ほつれている。以前なら、すぐに仕立て屋を呼んでいたはずなのに。


ジゼルは、私を見るなり目を見開いた。

それから、繋がれた手に視線を落として、唇を歪める。


「……ミラ」


父が立ち上がった。


「迎えに来た。帰るぞ」


挨拶も、久しぶりの一言もなかった。

まるで、昨日の続きのように。


私は、ルーカス様の手をそっと離した。

一歩、前に出る。


「お父様。お手紙で、お返事を差し上げたはずです」

「あんなものは返事ではない。お前は騙されているんだ」


父は、ルーカス様を一瞥した。


「騎士団の帳簿係など、お前のような娘のする仕事ではない。商会に戻れば、お前の居場所はちゃんとある」

「……居場所」


その言葉を、口の中で転がす。


「私の居場所は、事務所の奥の、一番暗い机でしたね。灯りの油も、自分で買っていました」

「それは……」

「帳簿をつけても、取引先に私の名前が出ることはありませんでした。全部、お父様のお手柄でした」


声は、思ったより震えなかった。


「それを、恨んでいるわけではありません。ただ私はもう、あの机には戻りたくないんです」


  ◇


「何よ、偉そうに!」


ジゼルが、長椅子から立ち上がった。


「お姉様のせいで、私がどれだけ恥をかいたと思ってるの! クラウス様には捨てられるし、王都じゃ笑い者だし……!」

「ジゼル、それはお前が——」

「お父様は黙ってて!」


ジゼルは、私を睨みつけた。


「騎士団長様に取り入ったって、無駄よ。匂いのない女なんて、誰も本気で相手にしないんだから。どうせ便利に使われてるだけで——」


「失礼」


静かな声が、ジゼルの言葉を遮った。


ルーカス様だった。

声を荒らげたわけではない。けれど、部屋の空気が、ぴんと張り詰めた。


「彼女は、北方騎士団の主計官補佐だ。私の部下であり、この砦の誰もが信頼を寄せる人だ」


灰色の瞳が、ジゼルをまっすぐに見据える。


「彼女を侮辱することは、騎士団を侮辱することと同じだ。どうか、言葉を選んでいただきたい」


ジゼルは、ぱくぱくと口を動かして、何も言えなくなった。


ルーカス様は、それ以上何も言わなかった。

番のことも。私の匂いのことも。


それは、私が決めることだから。

この人は、そう思ってくれているのだ。


  ◇


「……ミラ」


父が、声を低くした。


「お前は、親を見捨てるのか」


その言葉に、胸がずきりと痛んだ。


「商会は、このままでは潰れる。従業員も路頭に迷う。お前一人が戻れば、それで済む話だ」


一人が戻れば、済む話。


ずっと、そうだった。

私一人が我慢すれば。私一人が黙っていれば。私一人が働けば。


「来い」


父が、私の腕を掴んだ。


ぐい、と引かれる。

足がよろけて——


その手首を、大きな手が掴んだ。


「ロウェル殿」


ルーカス様だった。

父の手首を掴んだまま、静かに言う。


「彼女は今、ここにいたいと言っている。その意思を、力で曲げることは認められない」

「他人が口を出すな! これは親子の問題だ!」

「ならば、親として、娘の言葉を、最後まで聞いてやってはもらえないだろうか」


父の顔が、怒りで赤く染まる。


その時。


「ロウェル殿。もう、やめましょう」


応接室の扉が開いて、一人の青年が入ってきた。

旅の汚れがついた外套。狐の耳。


「……クラウス様?」


  ◇


クラウス様は、私を見て、少しだけ顔を歪めた。

それから、父に向き直る。


「王都を出る前に、軍務局の監察官と話してきました。補給物資の件、ギルバート補給官との取引の記録が、すべて押さえられたそうです」


父の手から、力が抜けた。


「商会の免許は、一時停止になるでしょう。……ミラを連れて帰っても、もう帳簿でどうにかなる段階ではありません」

「そ、そんな……」


父は、よろよろと長椅子に座り込んだ。


クラウス様は、それから私の前に立った。

深く、深く頭を下げる。


「ミラ。すまなかった」


私は、目を瞬かせた。


「三年間、俺は君と向き合わなかった。匂いがないことを言い訳にして、君がくれた手紙に一度も返事を書かなかった。……ジゼルの香水に騙されたのも、結局は、俺が楽なほうに逃げたからだ」


顔を上げたクラウス様は、ひどく疲れた顔をしていた。


「許してくれとは言わない。ただ、謝りたかった。それだけだ」


私は、しばらく黙ってクラウス様を見つめていた。


この人を、恨んだことはあっただろうか。

婚約を解消された時、悲しかっただろうか。


……正直に言えば、あまり覚えていない。

あの頃の私は、悲しむことすら、仕方ないと諦めていたから。


「謝罪は、受け取ります」


私は、静かに言った。


「でも、もういいんです。私は今、ここで幸せですから」


クラウス様は、少しだけ目を見開いた。

それから、ほんのわずかに笑った。苦い、けれどどこか安堵したような笑み。


「……そうか。よかった」


  ◇


私は、長椅子に座り込んだ父の前に膝をついた。


父は、私を見なかった。

床の一点を、ぼんやりと見つめている。


「お父様」


返事はない。


「私は、お父様を恨んでいません。……恨むほど、強くなかったので」


父の肩が、わずかに揺れた。


「でも、戻りません。私がいなくても回る商会を作れなかったのは、私のせいではありません」


酷いことを言っているのかもしれない。

けれど、これだけは言わなければならなかった。


「トマスさんは、誠実な人です。一から、やり直してください。……お母様の残した商会ですから」


父が、ゆっくりと顔を上げた。


その目に、初めて、私が映っている気がした。


「……お前は」


掠れた声。


「お前は、そんなに……母親に似ていたか」


それが、父が私にくれた、初めての言葉らしい言葉だった。


謝罪ではない。礼でもない。

けれど、それでもいいと思った。


  ◇


父とジゼルは、その日のうちに砦を発った。


ジゼルは最後まで私を睨んでいたけれど、門をくぐる時、一度だけ振り返った。

何か言いたげに唇が動いて、結局、何も言わずに馬車に乗り込んだ。


クラウス様は、別れ際にもう一度だけ頭を下げた。


「グレイ団長。……ミラを、頼みます」


ルーカス様は、少し考えてから、静かに答えた。


「それは、彼女が決めることだ」


クラウス様は目を瞬かせ、それから、ふっと笑った。


「……なるほど。かなわないな」


馬車と馬が、雪原の向こうへ小さくなっていく。


私は、城門の上から、それをずっと見送っていた。


  ◇


夕暮れ。


城壁の上には、私とルーカス様だけが残っていた。


「……大丈夫か」

「はい」


不思議なくらい、心は静かだった。


長い間、背負っていた荷物を、ようやく下ろせた気がする。

重かったことにすら、気づいていなかった荷物を。


「ルーカス様。一つ、お聞きしてもいいですか」

「ああ」

「さっき……番のこと、言いませんでしたね」


ルーカス様は、少しだけ目を伏せた。


「あれを言えば、きっと話は早かった。ジゼル殿も黙っただろう」

「はい」

「だが、それは君の盾に、私の都合を使うことになる。……君は、君の言葉で戦っていた。私が横から奪っていいものではなかった」


この人は、どこまでも。


私は、胸に抱えていた包みを、そっと差し出した。


「これ。……受け取っていただけますか」


ルーカス様が、目を瞬かせる。

包みを開くと、深い紺色の襟巻きが現れた。


「手袋の、お返しです。少し、目が揃っていないところがあるんですけど」


ルーカス様は、しばらく何も言わずに襟巻きを見つめていた。

指先で、そっと毛糸を撫でる。


「……君が、編んだのか」

「はい。休日に」


ルーカス様が、何かをこらえるように唇を引き結んだ。


「つけても、いいだろうか」

「……私が、巻いてもいいですか」


自分でも、なぜそんなことを言ったのかわからなかった。


ルーカス様は一瞬固まり、それから、ゆっくりと身を屈めた。

私の背丈に合わせるように。


襟巻きを、彼の首にかける。

くるりと一周させて、端を整える。


その時。


ふわり、と。


何かが、鼻をかすめた。


雪解けの水のような。

深い森の、朝の空気のような。

冷たくて、静かで——けれど、その奥に、確かな温もりがある。


私は、手を止めた。


「……ミラ?」


ルーカス様の声が、すぐ近くで聞こえる。


もう一度、息を吸う。

間違いない。生まれて初めて、私は——誰かの匂いを、感じていた。


「ルーカス様」


声が、震えた。


「……森の、匂いがします」


ルーカス様の灰色の瞳が、大きく見開かれた。


「雪解けの、森の匂い。……ルーカス様から」


ハンス先生の言葉が、耳の奥で蘇る。

あんたの『鼻』は、たぶん少し変わった形をしとる。


ずっと、閉じていたのだ。

匂いのない娘として、誰にも見つけてもらえないと諦めて。

自分の心ごと、固く閉じていた。


それが、今——ようやく、開いた。


ルーカス様は、何も言わなかった。

ただ、震える手を伸ばしかけて——途中で、止めた。


触れていいのか、迷うように。


私は、その手を、自分から取った。


「まだ、答えの途中です」


涙が、頬を伝っていく。

けれど、悲しい涙ではなかった。


「でも……答えは、たぶん、もうすぐです」


ルーカス様は、私の手を、壊れ物に触れるようにそっと握り返した。


紺色の襟巻きに顔を半分埋めて、彼は小さく笑った。

今まで見た中で、一番、幸せそうな顔で。


「待っているよ。……いつまでも」


夕陽が、雪原を金色に染めていた。


北の砦の城壁の上。

匂いのない娘と、匂いを失った騎士は、ようやく互いの匂いを見つけた。

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