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匂いのない娘は、北の砦で今日も黙々と働く ~番なしと笑われた私ですが、気づけば騎士団になくてはならない存在になっていたようです~  作者: ティアナ
第一部

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13/14

番外編 言わなかった言葉

門番から来訪の報せを受けた時、私が最初に考えたのは、剣を腰に佩いたままか、外して執務室に置いていくか。


……馬鹿げている。相手は魔獣ではない。彼女の父親だ。


それでも、指先が勝手に柄を探していた。


迎えに来た、だと。

あの手紙を寄越しておいて。謝罪の一行もなく、戻れと命じておいて。

今さら、どの面を下げて——


剣は、執務室に置いた。

置いていかなければ、自分が何をするかわからなかった。


  ◇


ミラの手は、冷たかった。


廊下を歩きながら、私はその手を握っていた。指先がかすかに震えている。

彼女はそれを隠そうとしていた。背筋を伸ばして、前だけを見て。


陽だまりの匂いが、薄い。

怯えている時、彼女の匂いは細く、遠くなる。それに気づいたのは、つい最近のことだ。


この人を、ここまで怯えさせる相手が、扉の向こうにいる。


会わなくていい。俺が追い返す。二度とこの砦の門をくぐらせない。

喉元までせり上がったその言葉を、私は飲み込んだ。


彼女は「自分の口で伝えたい」と言ったのだ。

それを取り上げたら、私はあの父親と何が違う。


「行こう」


そう言うのが、精一杯だった。


  ◇


応接室の扉を開けた瞬間、鼻の奥に、いくつもの匂いが突き刺さった。


上等な外套に染みた、古い香。

それから、苛立ちの匂い。焦げた鉄のような、ざらついた汗の匂い。追い詰められた者が放つ、あの嫌な酸っぱさ。


焦っているのだ、この男は。娘を案じてではなく、自分の商会のために。


ジゼル殿のほうは、もっとひどかった。

瓶から出したばかりの、甘ったるい花の香り。その下から、隠しきれない嫉妬の匂いが滲み出している。腐りかけた果物のような。


十年ぶりに戻った鼻は、時々、知りたくもないことまで教えてくれる。


「迎えに来た。帰るぞ」


挨拶もない。久しぶりだとも、元気だったかとも言わない。


ふざけるな。


彼女がこの冬、どれだけ働いたと思っている。どれだけの騎士を救ったと思っている。倒れるまで働いて、それでも次の朝には笑って粥を炊いていた、あの細い背中をお前は一度でも見たことがあるのか。


口を開きかけて、閉じた。

今ここで俺が口を開けば、怒鳴る以外にできることがない。


  ◇


ミラは、私の手をそっと離して、一歩前に出た。


「私の居場所は、事務所の奥の、一番暗い机でしたね。灯りの油も、自分で買っていました」


灯りの油を、自分で。


奥歯が、ぎしりと鳴った。


何年だ。何年、この人をそんな場所に座らせていた。

帳簿を全部任せて、名前も出さずに、手柄だけ奪って。油代すら出さずに。


商会が傾いて当然だ。むしろ、今までよく保ったものだ。全部この人が支えていたからだろうが。


ロウェル殿の匂いが、一瞬だけ揺らいだ。

後ろめたさの匂い。湿った、生ぬるい匂い。


——わかっていたのか。

わかっていて、やっていたのか。


拳を、背中で握りしめた。爪が掌に食い込む。

それでいい。痛みがあるうちは、まだ正気でいられる。


  ◇


「匂いのない女なんて、誰も本気で相手にしないんだから。どうせ便利に使われてるだけで——」


その瞬間、腹の底で、獣が跳ね起きた。


黙れ。


黙れ、黙れ、黙れ。


狼の本能というものは、厄介だ。

番を貶められた。それだけで、血が沸騰する。牙を剥け、喉笛に食らいつけと、全身が叫ぶ。


匂いのない女、だと。

お前のその安物の香水の下で、どれだけ醜い匂いがしているか、教えてやろうか。

この人がどれほどいい匂いがするか。陽だまりのような、焼きたてのパンのような、冬の終わりの花のような。お前には一生わからない。わかってたまるか。


言ってしまえばいい。


彼女は俺の番だ、と。

そう告げれば、この部屋の誰も、二度と彼女を欠けた娘とは呼べない。

この場に剣があれば。

この女の口を永遠に塞いでしまいたい。


「失礼」


口から出たのは、それだけだった。


私は騎士団長として、彼女が騎士団の一員であることだけを告げた。

声を荒らげずに済んだのは、ほとんど奇跡だったと思う。


番のことは、言わなかった。


言えば、彼女は「団長の番だから」守られたことになる。

それだけは、絶対に嫌だった。


彼女は、彼女の積み上げてきたもので、ここに立っている。その全てを、俺の本能ひとつで上書きしてたまるか。


ジゼル殿の匂いが、さっと冷えた。

恐怖の匂い。尾を巻いた獣の匂い。


……声を荒らげなくても、目までは隠せていなかったらしい。


  ◇


「お前は、親を見捨てるのか」


ロウェル殿が、そう言った。


見捨てる?

見捨てたのは、どっちだ。


匂いのない娘だと、ろくに顔も見ず、北の果ての砦へ下働きとして放り出したのは誰だ。生きて冬を越せるかもわからない場所へ。


「お前一人が戻れば、それで済む話だ」


ああ、そうか。

この男にとって、彼女はずっと「一人」だったのか。数に入れるだけの、帳尻合わせの一人。


そして、ロウェル殿が、ミラの腕を掴んだ。


——その手を離せ。


体が、考えるより先に動いた。


掴んだ手首は、思っていたよりずっと細かった。剣を握ったことのない、帳簿と金貨の重さしか知らない手。


少し力を込めれば、折れる。


折ってやろうか、と一瞬、本気で思った。


彼女の腕を掴んだこの手を。彼女を暗い机に縛りつけてきたこの手を。


ミラは、この男を「お父様」と呼び続けている。

彼女はまだ、この人に父親であってほしいと、どこかで願っている。


だったら私は、その願いを踏みにじる側に立つべきではない。



——どれだけ、腹が煮えくり返っていても。



「ならば、親として、娘の言葉を、最後まで聞いてやってはもらえないだろうか」


本当に言いたかったのは、そんな言葉ではなかった。

お前に親を名乗る資格があるのか、と。そう吐き捨てたかった。


  ◇


扉が開いて、クラウス殿が入ってきた。


かつての婚約者。彼女を「番ではない」と捨てた男。


……どの口で来た。


一瞬、獣がまた唸った。

三年も婚約者の座にいて、手紙の一通も返さなかった男。香水ごときに騙されて、彼女を捨てた男。


けれど、彼の匂いには、敵意がなかった。

旅の埃と、雪と、それから、後悔の匂い。湿った、重たい匂いだった。


嘘の匂いは、しなかった。


彼はミラに頭を下げ、三年分の詫びを口にした。


「でも、もういいんです。私は今、ここで幸せですから」


ミラがそう言った時。

それまで腹の中で暴れ回っていた獣が、嘘のように静かになった。


幸せだと。

ここで、と。


膝をつきそうになるのを、必死にこらえた。


  ◇


ロウェル殿は、最後に「母親に似ていたか」と言った。


謝罪ではない。礼でもない。

それでも、ミラの匂いが、ほんの少しだけ温かくなった。


……それなら、いい。


本音を言えば、まだ足りない。床に額をこすりつけて詫びろと思う。

だが、彼女がそれでいいと思えるなら、私が口を挟むことは何もない。


  ◇


門の前で、馬車に乗り込もうとするロウェル殿に、私は一度だけ声をかけた。


ミラは少し離れた場所で、クラウス殿と話していた。

声の届かない距離だ。


「ロウェル殿」


彼は、振り返らなかった。


「彼女の帳簿は、見事です。軍務局の会計官でも、あれほどのものはつけられない」


返事はない。


「あなたの商会は、何年も、あの帳簿で回っていた。そのことだけは、生涯忘れないでいただきたい」


長い沈黙のあと。

ロウェル殿は、掠れた声で、一言だけ言った。


「……知っていた」


それきり、馬車の扉が閉まった。


知っていた、と。


その声からは、苛立ちの匂いが消えていた。

残っていたのは、ひどく古い、乾いた悔いの匂いだけだった。


知っていて、一度も礼を言わなかったのか。

知っていたと、今ようやく認めたのか。


どちらにしても、許してやる気にはなれない。

それでも、いつか彼女が聞きたいと言った時には、この一言だけは伝えようと思う。


  ◇


クラウス殿は、別れ際に「ミラを頼みます」と言った。


お前に頼まれる筋合いはない、と喉まで出かかった。


「それは、彼女が決めることだ」


本心だった。

彼女の隣に立つ権利は、彼女がくれるものだ。お前から譲り受けるものではない。


クラウス殿は、なぜか笑っていた。

……まあ、いい。少しだけ、見直してやる。


  ◇


夕暮れの城壁で、ミラは私に包みを差し出した。


紺色の襟巻き。

これを、彼女が。


襟巻きから、陽だまりの匂いがした。

何日も、何夜も、彼女の手の中にあった匂いだった。


「……私が、巻いてもいいですか」


固まった。


身を屈めると、彼女の指が首筋をかすめる。

毛糸が肩に回る。くるりと一周して、端を整える細い指。


近い。

これほど近くで、彼女の匂いを吸い込んだのは、初めてだった。


今日一日、ずっと腹の底で暴れていた獣が、今度は別の理由で起き上がる。


抱き寄せろ。


抱き寄せろ。抱き寄せろ。抱き寄せろ。抱き寄せろ。抱き寄せろ。抱き寄せろ。抱き寄せろ。抱き寄せろ。抱き寄せろ。抱き寄せろ。抱き寄せろ。抱き寄せろ。抱き寄せろ。


このまま腕の中に閉じ込めて、二度と誰にも触れさせるな。あんな連中に、二度と。


だめだ。耐えろ耐えろ耐えろ耐えろ。

まだ、彼女は答えをくれていない。


奥歯を噛みしめた、その時だった。


「……森の、匂いがします」


息が、止まった。


「雪解けの、森の匂い。……ルーカス様から」


彼女が。俺の匂いを。


番の匂いは、番にしかわからない。


ずっと、一方通行だと思っていた。

俺だけが勝手に惹かれて、勝手に焦がれて、彼女にはそれが届かないのだと。それでもいいと、自分に言い聞かせてきた。


届いていた。


ふざけるな、と思った。

今日一日、あれだけ耐えたのに。あれだけ必死に、獣を押さえつけてきたのに。

こんな時に、そんなことを言われたら——


抱き寄せろ。抱き寄せろ。抱き寄せろ。抱き寄せろ。抱き寄せろ。


手を伸ばしかけて、止めた。

触れたら、もう止まれない。今度こそ、本当に。


その手を、彼女のほうから取ってくれた。


「まだ、答えの途中です」


泣きながら、彼女は笑っていた。


「でも……答えは、たぶん、もうすぐです」


壊れ物に触れるように、握り返す。

それ以上の力は、込めなかった。込められなかった。


「待っているよ。……いつまでも」


嘘ではない。何年でも待てる。


ただ、もうすぐ、と彼女が言った。


その一言だけで、今夜は眠れそうにないと思った。


  ◇


その夜。


灯りを落としても、私は襟巻きを外せずにいた。


扉が叩かれる。


「団長、まだ起きてます?」


テオだった。

扉の隙間から顔を覗かせて、私を見て、首元を見て、にやりと笑った。


「……それ、寝る時もつけるんですか」

「つける」

「暑くないですか」

「暑くない」


テオは何か言いたそうに口を開けて、閉じて、肩をすくめた。


「ミラさん、今夜はちゃんと寝たってリタが言ってましたよ。……団長も寝てくださいね。明日、目の下真っ黒だったらミラさんに怒られますから」


ぱたん、と扉が閉まる。


私は寝台に横になり、襟巻きを口元まで引き上げた。


陽だまりの匂いがした。


今日一日の苛立ちも、怒りも、その匂いの中にゆっくりと溶けていく。


ただ、目を閉じる直前に、ひとつだけ思った。


いつか、聞くことも忘れて、彼女を抱きしめてしまう日が来るかもしれない。


その時はどうか、許してほしい。

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