番外編 言わなかった言葉
門番から来訪の報せを受けた時、私が最初に考えたのは、剣を腰に佩いたままか、外して執務室に置いていくか。
……馬鹿げている。相手は魔獣ではない。彼女の父親だ。
それでも、指先が勝手に柄を探していた。
迎えに来た、だと。
あの手紙を寄越しておいて。謝罪の一行もなく、戻れと命じておいて。
今さら、どの面を下げて——
剣は、執務室に置いた。
置いていかなければ、自分が何をするかわからなかった。
◇
ミラの手は、冷たかった。
廊下を歩きながら、私はその手を握っていた。指先がかすかに震えている。
彼女はそれを隠そうとしていた。背筋を伸ばして、前だけを見て。
陽だまりの匂いが、薄い。
怯えている時、彼女の匂いは細く、遠くなる。それに気づいたのは、つい最近のことだ。
この人を、ここまで怯えさせる相手が、扉の向こうにいる。
会わなくていい。俺が追い返す。二度とこの砦の門をくぐらせない。
喉元までせり上がったその言葉を、私は飲み込んだ。
彼女は「自分の口で伝えたい」と言ったのだ。
それを取り上げたら、私はあの父親と何が違う。
「行こう」
そう言うのが、精一杯だった。
◇
応接室の扉を開けた瞬間、鼻の奥に、いくつもの匂いが突き刺さった。
上等な外套に染みた、古い香。
それから、苛立ちの匂い。焦げた鉄のような、ざらついた汗の匂い。追い詰められた者が放つ、あの嫌な酸っぱさ。
焦っているのだ、この男は。娘を案じてではなく、自分の商会のために。
ジゼル殿のほうは、もっとひどかった。
瓶から出したばかりの、甘ったるい花の香り。その下から、隠しきれない嫉妬の匂いが滲み出している。腐りかけた果物のような。
十年ぶりに戻った鼻は、時々、知りたくもないことまで教えてくれる。
「迎えに来た。帰るぞ」
挨拶もない。久しぶりだとも、元気だったかとも言わない。
ふざけるな。
彼女がこの冬、どれだけ働いたと思っている。どれだけの騎士を救ったと思っている。倒れるまで働いて、それでも次の朝には笑って粥を炊いていた、あの細い背中をお前は一度でも見たことがあるのか。
口を開きかけて、閉じた。
今ここで俺が口を開けば、怒鳴る以外にできることがない。
◇
ミラは、私の手をそっと離して、一歩前に出た。
「私の居場所は、事務所の奥の、一番暗い机でしたね。灯りの油も、自分で買っていました」
灯りの油を、自分で。
奥歯が、ぎしりと鳴った。
何年だ。何年、この人をそんな場所に座らせていた。
帳簿を全部任せて、名前も出さずに、手柄だけ奪って。油代すら出さずに。
商会が傾いて当然だ。むしろ、今までよく保ったものだ。全部この人が支えていたからだろうが。
ロウェル殿の匂いが、一瞬だけ揺らいだ。
後ろめたさの匂い。湿った、生ぬるい匂い。
——わかっていたのか。
わかっていて、やっていたのか。
拳を、背中で握りしめた。爪が掌に食い込む。
それでいい。痛みがあるうちは、まだ正気でいられる。
◇
「匂いのない女なんて、誰も本気で相手にしないんだから。どうせ便利に使われてるだけで——」
その瞬間、腹の底で、獣が跳ね起きた。
黙れ。
黙れ、黙れ、黙れ。
狼の本能というものは、厄介だ。
番を貶められた。それだけで、血が沸騰する。牙を剥け、喉笛に食らいつけと、全身が叫ぶ。
匂いのない女、だと。
お前のその安物の香水の下で、どれだけ醜い匂いがしているか、教えてやろうか。
この人がどれほどいい匂いがするか。陽だまりのような、焼きたてのパンのような、冬の終わりの花のような。お前には一生わからない。わかってたまるか。
言ってしまえばいい。
彼女は俺の番だ、と。
そう告げれば、この部屋の誰も、二度と彼女を欠けた娘とは呼べない。
この場に剣があれば。
この女の口を永遠に塞いでしまいたい。
「失礼」
口から出たのは、それだけだった。
私は騎士団長として、彼女が騎士団の一員であることだけを告げた。
声を荒らげずに済んだのは、ほとんど奇跡だったと思う。
番のことは、言わなかった。
言えば、彼女は「団長の番だから」守られたことになる。
それだけは、絶対に嫌だった。
彼女は、彼女の積み上げてきたもので、ここに立っている。その全てを、俺の本能ひとつで上書きしてたまるか。
ジゼル殿の匂いが、さっと冷えた。
恐怖の匂い。尾を巻いた獣の匂い。
……声を荒らげなくても、目までは隠せていなかったらしい。
◇
「お前は、親を見捨てるのか」
ロウェル殿が、そう言った。
見捨てる?
見捨てたのは、どっちだ。
匂いのない娘だと、ろくに顔も見ず、北の果ての砦へ下働きとして放り出したのは誰だ。生きて冬を越せるかもわからない場所へ。
「お前一人が戻れば、それで済む話だ」
ああ、そうか。
この男にとって、彼女はずっと「一人」だったのか。数に入れるだけの、帳尻合わせの一人。
そして、ロウェル殿が、ミラの腕を掴んだ。
——その手を離せ。
体が、考えるより先に動いた。
掴んだ手首は、思っていたよりずっと細かった。剣を握ったことのない、帳簿と金貨の重さしか知らない手。
少し力を込めれば、折れる。
折ってやろうか、と一瞬、本気で思った。
彼女の腕を掴んだこの手を。彼女を暗い机に縛りつけてきたこの手を。
ミラは、この男を「お父様」と呼び続けている。
彼女はまだ、この人に父親であってほしいと、どこかで願っている。
だったら私は、その願いを踏みにじる側に立つべきではない。
——どれだけ、腹が煮えくり返っていても。
「ならば、親として、娘の言葉を、最後まで聞いてやってはもらえないだろうか」
本当に言いたかったのは、そんな言葉ではなかった。
お前に親を名乗る資格があるのか、と。そう吐き捨てたかった。
◇
扉が開いて、クラウス殿が入ってきた。
かつての婚約者。彼女を「番ではない」と捨てた男。
……どの口で来た。
一瞬、獣がまた唸った。
三年も婚約者の座にいて、手紙の一通も返さなかった男。香水ごときに騙されて、彼女を捨てた男。
けれど、彼の匂いには、敵意がなかった。
旅の埃と、雪と、それから、後悔の匂い。湿った、重たい匂いだった。
嘘の匂いは、しなかった。
彼はミラに頭を下げ、三年分の詫びを口にした。
「でも、もういいんです。私は今、ここで幸せですから」
ミラがそう言った時。
それまで腹の中で暴れ回っていた獣が、嘘のように静かになった。
幸せだと。
ここで、と。
膝をつきそうになるのを、必死にこらえた。
◇
ロウェル殿は、最後に「母親に似ていたか」と言った。
謝罪ではない。礼でもない。
それでも、ミラの匂いが、ほんの少しだけ温かくなった。
……それなら、いい。
本音を言えば、まだ足りない。床に額をこすりつけて詫びろと思う。
だが、彼女がそれでいいと思えるなら、私が口を挟むことは何もない。
◇
門の前で、馬車に乗り込もうとするロウェル殿に、私は一度だけ声をかけた。
ミラは少し離れた場所で、クラウス殿と話していた。
声の届かない距離だ。
「ロウェル殿」
彼は、振り返らなかった。
「彼女の帳簿は、見事です。軍務局の会計官でも、あれほどのものはつけられない」
返事はない。
「あなたの商会は、何年も、あの帳簿で回っていた。そのことだけは、生涯忘れないでいただきたい」
長い沈黙のあと。
ロウェル殿は、掠れた声で、一言だけ言った。
「……知っていた」
それきり、馬車の扉が閉まった。
知っていた、と。
その声からは、苛立ちの匂いが消えていた。
残っていたのは、ひどく古い、乾いた悔いの匂いだけだった。
知っていて、一度も礼を言わなかったのか。
知っていたと、今ようやく認めたのか。
どちらにしても、許してやる気にはなれない。
それでも、いつか彼女が聞きたいと言った時には、この一言だけは伝えようと思う。
◇
クラウス殿は、別れ際に「ミラを頼みます」と言った。
お前に頼まれる筋合いはない、と喉まで出かかった。
「それは、彼女が決めることだ」
本心だった。
彼女の隣に立つ権利は、彼女がくれるものだ。お前から譲り受けるものではない。
クラウス殿は、なぜか笑っていた。
……まあ、いい。少しだけ、見直してやる。
◇
夕暮れの城壁で、ミラは私に包みを差し出した。
紺色の襟巻き。
これを、彼女が。
襟巻きから、陽だまりの匂いがした。
何日も、何夜も、彼女の手の中にあった匂いだった。
「……私が、巻いてもいいですか」
固まった。
身を屈めると、彼女の指が首筋をかすめる。
毛糸が肩に回る。くるりと一周して、端を整える細い指。
近い。
これほど近くで、彼女の匂いを吸い込んだのは、初めてだった。
今日一日、ずっと腹の底で暴れていた獣が、今度は別の理由で起き上がる。
抱き寄せろ。
抱き寄せろ。抱き寄せろ。抱き寄せろ。抱き寄せろ。抱き寄せろ。抱き寄せろ。抱き寄せろ。抱き寄せろ。抱き寄せろ。抱き寄せろ。抱き寄せろ。抱き寄せろ。抱き寄せろ。
このまま腕の中に閉じ込めて、二度と誰にも触れさせるな。あんな連中に、二度と。
だめだ。耐えろ耐えろ耐えろ耐えろ。
まだ、彼女は答えをくれていない。
奥歯を噛みしめた、その時だった。
「……森の、匂いがします」
息が、止まった。
「雪解けの、森の匂い。……ルーカス様から」
彼女が。俺の匂いを。
番の匂いは、番にしかわからない。
ずっと、一方通行だと思っていた。
俺だけが勝手に惹かれて、勝手に焦がれて、彼女にはそれが届かないのだと。それでもいいと、自分に言い聞かせてきた。
届いていた。
ふざけるな、と思った。
今日一日、あれだけ耐えたのに。あれだけ必死に、獣を押さえつけてきたのに。
こんな時に、そんなことを言われたら——
抱き寄せろ。抱き寄せろ。抱き寄せろ。抱き寄せろ。抱き寄せろ。
手を伸ばしかけて、止めた。
触れたら、もう止まれない。今度こそ、本当に。
その手を、彼女のほうから取ってくれた。
「まだ、答えの途中です」
泣きながら、彼女は笑っていた。
「でも……答えは、たぶん、もうすぐです」
壊れ物に触れるように、握り返す。
それ以上の力は、込めなかった。込められなかった。
「待っているよ。……いつまでも」
嘘ではない。何年でも待てる。
ただ、もうすぐ、と彼女が言った。
その一言だけで、今夜は眠れそうにないと思った。
◇
その夜。
灯りを落としても、私は襟巻きを外せずにいた。
扉が叩かれる。
「団長、まだ起きてます?」
テオだった。
扉の隙間から顔を覗かせて、私を見て、首元を見て、にやりと笑った。
「……それ、寝る時もつけるんですか」
「つける」
「暑くないですか」
「暑くない」
テオは何か言いたそうに口を開けて、閉じて、肩をすくめた。
「ミラさん、今夜はちゃんと寝たってリタが言ってましたよ。……団長も寝てくださいね。明日、目の下真っ黒だったらミラさんに怒られますから」
ぱたん、と扉が閉まる。
私は寝台に横になり、襟巻きを口元まで引き上げた。
陽だまりの匂いがした。
今日一日の苛立ちも、怒りも、その匂いの中にゆっくりと溶けていく。
ただ、目を閉じる直前に、ひとつだけ思った。
いつか、聞くことも忘れて、彼女を抱きしめてしまう日が来るかもしれない。
その時はどうか、許してほしい。




