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匂いのない娘は、北の砦で今日も黙々と働く ~番なしと笑われた私ですが、気づけば騎士団になくてはならない存在になっていたようです~  作者: ティアナ
第二部

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春の答え

北の砦に、春が来た。


城壁の陰に残っていた雪が、日に日に小さくなっていく。

裏の斜面では、咳止めの草が新しい葉を広げ始めていた。

厨房の窓を開けると、湿った土の匂いが流れ込んでくる。


匂い。


あの日から、世界が少しだけ変わった。


相変わらず、他の誰かの「番の匂い」はわからない。

リタちゃんがテオさんの話をする時に頬を染めていても、それが匂いのせいなのかどうか、私にはわからない。


ただ——ルーカス様の匂いだけは、わかる。


廊下の角を曲がる前に、そこに彼がいるとわかる。

執務室の扉を開ける前から、雪解けの森の匂いがする。

襟巻きを巻いて見回りから戻ってきた時は、そこに冷たい風と、ほんの少しだけ毛糸の匂いが混ざっている。


それに気づくたびに、胸の奥がふわりと温かくなった。


  ◇


ルーカス様は、相変わらずだった。


丁寧で、穏やかで、決して急かさない。

二歩分だけ手を繋いで、それ以上は求めない。


ただ、時々。

私が何かに夢中になっている時、ふと顔を上げると、ルーカス様がこちらを見ていることがある。

目が合うと、慌てたように視線を逸らす。耳が、少しだけ赤い。


「団長、最近わかりやすいですよね」


テオさんが、こっそり私に耳打ちした。


「あれで隠してるつもりなんですよ。砦の全員にバレてるのに」

「……全員に?」

「そりゃもう。バルトさんなんか、団長のスープだけ具を増やすのやめたって。『浮かれてるやつに肉はいらん』って」


私は、思わず笑ってしまった。


  ◇


その朝は、よく晴れていた。


私はいつものように、執務室へお茶を運んでいた。

朝のお茶は、いつの間にか習慣になっていた。夜は眠るための白い花のお茶。朝は、目を覚ますための少し苦い香草茶。


扉を叩こうとして、手を止める。


中から、森の匂いがしない。


「団長なら、さっき城壁に上がっていきましたよ」


通りかかったエリクさんが教えてくれた。


  ◇


城壁の上で、ルーカス様は一人、北の山を眺めていた。


紺色の襟巻きが、春の風に揺れている。

もう、そんなに寒くないのに。


「ルーカス様」


声をかけると、彼は振り返って、少しだけ驚いた顔をした。


「ミラ。どうした、こんなところまで」

「お茶を。……執務室にいらっしゃらなかったので」


盆を差し出すと、ルーカス様はいつものように両手で丁寧にカップを受け取った。


「ありがとう」


一口飲んで、ほっと息を吐く。

それから、北の山に視線を戻した。


「雪が解けたら、霜狼の群れはさらに北へ移る。今年は、もう砦が襲われることはないだろう」

「よかった」

「ああ。……君のおかげで、誰も失わずに冬を越せた」


ルーカス様は、そう言って目を細めた。


春の陽射しが、黒い髪を柔らかく照らしている。

左の頬の傷痕。少しだけ伏せられた狼の耳。紺色の襟巻き。


雪解けの、森の匂い。


その横顔を見ていたら——ふいに、すとんと、何かが胸の中に落ちてきた。


ずっと、答えを探していた。

番というものが何なのか。この気持ちが、それに応えられるものなのか。


でも、違ったのだ。


答えは、探すものではなかった。

もう、ずっと前から、ここにあった。


「……ルーカス様」

「ん?」


ルーカス様が、こちらを向く。


私は、盆を胸に抱きしめた。

心臓が、うるさいくらいに鳴っている。


「答えが、出ました」


ルーカス様の手の中で、カップがかすかに揺れた。


  ◇


「私は、匂いのない娘でした」


風が、髪を揺らしていく。


「誰にも見つけてもらえないと思っていました。番なんて、一生縁がないと。……だから、誰かを好きになることも、最初から諦めていました」


ルーカス様は、黙って聞いていた。

灰色の瞳が、まっすぐに私を見ている。


「でも、ルーカス様は、私の匂いに気づく前から、私を見てくれていました」


休んでくれと言われた日。

倒れた私を受け止めてくれた腕。

市で買ってくれた手袋。

番だとわかっても、私の気持ちを待ってくれたこと。


「番だから、好きになったんじゃないんです」


声が、震えた。

けれど、止めなかった。


「ルーカス様が、ルーカス様だから。……だから、好きになったんです」


言ってしまった。


顔が、燃えるように熱い。

盆を抱える手が、震えている。


「あなたの番になりたいです。……番だからじゃなくて、私が、そうしたいから」


  ◇


沈黙。


春の風が、二人の間を吹き抜けていく。


ルーカス様は、カップを持ったまま、固まっていた。

灰色の瞳が、大きく見開かれている。


やがて、彼はゆっくりとカップを城壁の縁に置いた。

それから、私に向き直る。


その手が、かすかに震えていた。


「……ミラ」


掠れた声。


「はい」

「……抱きしめても、いいか」


私は、目を瞬かせた。


この人は。

こんな時まで、ちゃんと聞くのだ。


なんだかおかしくて、愛おしくて、泣きそうになった。


「……はい」


頷いた瞬間。


盆ごと、包み込むように抱きしめられた。


力強くて、けれど決して痛くない。

壊れ物を扱うように、それでいて、二度と離さないとでもいうように。


雪解けの森の匂いが、胸いっぱいに広がる。


「ありがとう」


耳元で、ルーカス様が囁いた。

その声は、震えていた。


「ありがとう、ミラ。……選んでくれて」


私は、盆を片手に持ち替えて、空いた手でルーカス様の背中にそっと触れた。


紺色の襟巻きに、頬を寄せる。

少しだけ目が不揃いな、私が編んだ襟巻き。


「……苦しくないか」

「大丈夫です」

「寒くないか」

「ルーカス様がいるので」


そう答えると、ルーカス様の腕に、ほんの少しだけ力がこもった。


「……もう少しだけ、このままでいてもいいだろうか」

「二歩分より、長くてもいいですよ」


ルーカス様が、小さく笑ったのがわかった。


  ◇


どれくらい、そうしていただろう。


「……ミラ」

「はい」

「今まで、ずっと我慢していたことがある」


ルーカス様は、腕を緩めて、私の顔を覗き込んだ。

灰色の瞳が、春の陽射しの中で、とろけるように柔らかい。


「これからは、言ってもいいだろうか。思っていることを、全部」

「……全部、ですか?」

「ああ。君が嫌なら、もちろん控える」


真剣な顔だった。

私は、少しだけ迷ってから頷いた。


「……どうぞ」


ルーカス様は、深く息を吸った。


「君が淹れてくれるお茶が、世界で一番美味しい」

「えっ」

「帳簿をつけている時の、真剣な横顔が好きだ。リタに料理を教えている時の、優しい声も好きだ。笑う時に、少しだけ首を傾げる癖も好きだ」

「る、ルーカス様……!?」

「襟巻きは、毎日つけている。もう春なのに、外したくない。部下たちに笑われているが、どうでもいい」

「ま、待ってください、あの……!」

「それから、君の匂いは、陽だまりのようで——」


「わ、わかりました! わかりましたから……!」


顔から火が出そうだった。

盆で顔を隠すと、ルーカス様が不思議そうに首を傾げた。


「……嫌だったか?」

「嫌じゃない、です、けど……!」


一度に言われると、心臓がもたない。


ルーカス様は少し考えてから、真面目な顔で頷いた。


「わかった。では、一日一つずつにしよう」

「一日、一つ……」

「ああ。毎日、一つずつ伝える。……これから先、ずっと」


これから先、ずっと。


その言葉の意味に気づいて、私は盆の陰で、また泣きそうになった。


  ◇


城壁の下では。


「……おい、今の見たか」

「見た」

「団長、抱きしめていいかって聞いてたぞ」

「聞いてたな」

「……団長らしいな」

「らしいな」


テオさんとエリクさんが、物陰で顔を見合わせていた。

その後ろで、バルトさんが腕を組んで頷いている。


「……今夜は、肉を増やしてやるか」


  ◇


その日の午後。

執務室に、一通の書状が届いた。


封蝋には、王国軍務局の紋章。


ルーカス様が封を切り、目を通す。

その表情が、少しずつ変わっていった。


「……ミラ」

「はい」

「軍務局長が、春の視察でこの砦に来るそうだ」


ルーカス様は、書状を私に差し出した。


『北方騎士団において、この冬の物資消費が前年比三割減、死者皆無という報告を受けた。

その運営手法について、直接説明を求める。

特に、主計官補佐ミラ・ロウェルの同席を強く希望する』


私は、書状を持ったまま固まった。


「……私、何かしましたか?」


ルーカス様は、少し困ったように、けれどどこか誇らしげに笑った。


「たくさん、したよ」

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